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寿生新盆追悼航海そして海散骨         

コーチャンの
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まずは皆様へのお断り

海を愛して、楽しんで成長した彼は2005年1月29日下田で自らの命を絶ってしまった。
無量院釈寿生
何が彼をそこまで追いつめたのか今となっては誰も理解することが出来ないことはわかっており
又その突き詰めも答は出ず意味のないことも充分わかっているのだが・・
そういった僕の身勝手な行為で皆さんに多大なご迷惑、苦しみ悲しみを強制することになるのだとも

それなのにこうしてこのページをアップするのは自己中心のコーチャンなのでどうぞお許しください


文末に追記を書き変更いたしました(8月29日)

8月3日〜7日
名古屋在住の寿生の母、弓子と藤沢へ単身赴任になった父祐正氏より分骨して頂いたお骨を海で受け取るために
同じ藤沢にある江ノ島へHINANOを仲間と回航
三浦半島沖で最初の散骨、そして針路をホームポート富浦へ向け彼が釣りを楽しんだ場所にて再び散骨

写真はクリックすると別ウインドウで開きます

HINANOのキャビン内に
収まった
翌8月7日
HINANO仲間の
S氏とK嬢と共に出港
偶然出会ったHINANOで最初に散骨のお手伝いをさせていただいたK氏の家族に
舫を解いて頂いた

一番大事な舵の前に
お花と共に乗ってもらった
お花、ビール等と共に
シャコ貝に移す
少しずつ
交代で海に
流した


あまりにも軽く
小さい・・・
この後、沢山の小魚が
銀鱗のアーチを
描いてくれた

とんでもない姿で
お茶を点てる僕

耐えられない悲しみを
落ち着ける為
お点前頂戴

僕にはS氏が点ててくれた


8月13日新盆をどうしても海で執り行いたくHINANOを出した

もちろん目的地はあの伊豆・下田

写真はクリックすると別ウインドウで開きます

寿生の釣りの強敵手
K氏舵を握る


GPSの航跡


バックミュージックは
加山雄三
「海 その愛」

下田への最初の目標地
爪木埼が見えた
下田での係留地
ペリー上陸地

そのときの黒船は

バンバレーの仲間から
頂いた大漁旗を半旗に

バンバレーで収穫した
野菜でお迎えの馬を作る
大好きだったメロンも

14日

HINANOの仲間達と
現場に花を
手向けに行く


看板・中央下が係留地

そして南にある下田城趾を越えた所
「和歌の浦」の磯を
見下ろす所が・・

途中の展望台より
HINANO
(中央)

その黒松植林地の名は
「平和の森」

「魚つき保安林」
として保護されていた

静かな和歌浦

みんなで
泳いだ

熱帯魚、海草、
沢山の海の幸が

「河童石」
誰かがいつも表情を
変えるとか

ちょうど下田では
「太鼓祭り」

夜は花火が
HINANOの真上に
打ち上げられた

山車が練り歩き

どかーん

どどーん

無量院釈寿生


15日
寿生を乗せ出港


下田港入り口

平和の森沖
「ミョウチャン根」東

35°37′N
138°59′
にて散骨

(思いっきり遠くへ投げた)
隣には仲間のヨットが

沖縄で寿生と共に
ダイビングライセンスを
とったS氏に
八丈沖、阿嘉島にての
散骨依頼
散骨後そのまま
石廊崎を越え
彼と共にダイビングをした
西伊豆・妻良へ
ここでも花火
美しい湾内で泳ぐ
仲間のヨットと
東伊豆・稲取で合流
共に母港・富浦へ
錨を降ろした

日没後舳先から
「小望月」が昇る

初盆の迎え火、お飾り、お中日、送り火・・・と自分の親の時でもやったことがなかった

追記:

今回の航海で寿生の最後の足取りを追ったのだがはたして意味があったのかどうか?たぶん答はない
どのような気持ちで自宅を出、歩きここへ向かい此処が最期の地になったのかは彼のみぞ知る事だとわかってはいるが、
やはり僕はこうせざるしかなかった

意味のない詮索は続くが一つだけ
「彼は海が一番好きであり一番落ち着ける処」だということだけは確信出来た

又こんなに沢山の方々に初盆に参加していただき「彼はきっと嬉しいだろうね」との意見もあったが、そうは思えない
そして「彼はこうすることしか出来なかった」といった納得の仕方も出来ない
人の死は「そこまでがその人の人生」であり「彼なりに精一杯生き皆に慕われ」ある見方によれば「これで良かった」とは
どうしても僕には思えない、これは冒涜だろうか?

だからこれからも美しい海で散骨続けると思う

最期に写真には写っていないが沢山のHINANOの仲間、ヨット仲間が様々な形で参加してくれた、ありがとう 

そして「寿生のバカヤロー!!」

HINANO艇長・耕一より

05,08,29,追記(大好きな海の仲間と、そして山に)

下田で託したS氏のヨットよりメールがありました・コピーです。
「ヒサオ君の散骨も神湊入港の前に滞りなくSさんの手で執り行われましたこと、お伝えいただきます」
ヨット・レティシアXより

又27日、山梨バンバレーへも持っていく。
9月18日には沢山の山の仲間と再会の予定。
バンバレーでの写真を探していると小さな可愛い時からバカやってる最近の物まで・・。
いつも書いていたバンバレー日記も読み返した。
何に向かっても真剣?に立ち向かい自分に向かい反省している様子が。
旅の話や結婚観、子供について等等ビッチリ書かれていて読みふけってしまった。

29日帰宅したらポストに沖縄・阿嘉島よりS氏からの葉書が入っていた、以下その文面です。

「8月23日、晴、午後2時半、久米島の見える佐久原沖にヒサオを帰しました。ユーコさんが用意してくれた花を手向け、ヒサオの知人、石川父娘が歌う賛美歌に、ケラマが好きな寿生が海中で魚とたわむれているさまを想いました。
参加したのは、ゴローちゃん、ユーコさん、私、娘、孫、石川父娘でした、皆泣きながらのヒサオコールでした。S記」

そして阿嘉島のウエストコーストよりメールは下記

コーチャン。ツーセさん
寿夫くんの散骨ポイント(久場)に向かう道中、結構海は荒れていました
ポイントに向かうまで寿夫君の思い出が走馬灯のように浮かび、バディであるカッチャンの横に嬉しそうに座ってるように見えました。
カッチャンがいつまでも寿夫くんの側にひなのちゃんがいるようにと写真を一緒に流し、そのあと賛美歌を歌い皆で合唱し そのポイントを後にしました。
「久場島」は、神の島なので私は、島の上の積乱雲を見てたらその大きな黒っぽい雲の中にぽっかりとても
大きなドーナツ型のリングがあり、リングの中は青空が見えてて、まるで寿夫君のあの大きな
「目」に見えて仕方ありませんでした・・・・

阿嘉のゆうこより

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