もうだいぶ世代交代やメンバーの入れ替わりがあるためバンバレーの地主様・久我修三郎の事についてお話しします。
(何度かお話ししたかとは思いますが・・・。)
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大正2年北九州若松にて、ふく割烹旅館「ひさや」の三男として生まれた。
家庭内のごちゃごちゃがあり苦労したようだ。
大学は農業を志し東京農大で青春を謳歌したようです。
実習農場は今の青山学院で大根など作っていたそうで遊びのエリアは渋谷あたり。
(だから農大の大根踊りは渋谷)
忠犬ハチ公にえさをやったりしたそうです。
下宿は義父が代議士だったのでその東京別邸(英国大使館のある番町)から通っていたとか。
そのため長男の名前に「耕」を入れたと思う。
農業検査官になり各地の農家を訪ねていた時の写真がひょんな処から出てきた。
農家の縁側でお酒を飲んでいる写真だった。
(この時の給与明細表はバンバレーのお墓の中にある)
結核を患い療養所に、片肺を取る。そして自宅療養しながら今でいう全農に勤務
。
兵役は招集は受けたが身体検査でお役ごめんで、帰宅前義母からの隠しもったお金で呑んだらしい。
その後各地を転勤。
酒が一番好きだった。そこで飲兵衛=修ベエなのだ。
妻、多美子は小倉の酒屋の長女、これも酒が絡んでいた可能性アリ。
多美子も心臓病で長い間療養、入院を繰り返す。
修ベエさんと違ってすべてに積極的だった彼女は50パーセント以下のリスクを承知で手術。
1961年手術のかいもなく死亡。享年38才。
修ベエさん48歳の時、そして僕13才、姉16才を育てる。
僕の記憶の中には二人が運動をしている姿はない。
酒をこよなく愛していたがちゃんと子供達に弁当を作ってくれていた。
今この年になって感謝!
またすべてに対して(妻に、社会に、家庭に、仕事に・・・)「のれんに腕押し」の生き方が
片肺で生きていけた力だったと痛感。 自分が肉体的に弱いことを承知で無理をしない生き方だったと思う。
またその人格は尊敬されはしないにしろ嫌われることは無かったのではないか。
僕は今の年になって尊敬できるようになったが・・・。
日曜日だけは酒も飲まず煙草も吸わずただただ一日中寝ていた。
これが後の6日間のエネルギーになっていたようだ。
酒も好きだがその雰囲気を大事にしていた。
つまみもほとんど手をつけないのに注文したり部下、友人、知人を誘って飲んでた。
自宅に人を呼ぶのも好きでせっせと料理を作ってそれを食べているのを見てそれを肴にして飲んでいた。
息子と飲むのも夢だったらしく中学生の時から連れ出されていた。
会社は休んでもちゃんとお洒落して常連の飲み屋には通っていた。
55才で退職した後何度か出向や天下りの会社で働いていたが
「食えれば良い、ああ今日も目が覚めてもうかった」と言うのが口癖だった。
そして歌舞伎の声色も得意だった。
「付けで飲むなよ」との言葉はどうも結婚した時かなりの付けがたまっていて多美子に愚痴られてせいだと思う。
身をわきまえろ、飲み過ぎるなとも解釈できるが・・・。
母をまつってある本願寺でも「生き仏が肝心」と門前で手を合わせ寿司屋にて呑む。
バンバレーの土地の購入を持ちかけたときほとんど蓄えの無いにもかかわらず330万円を用意してくれた。
やはり畑、土にこだわりがあった事もそのきっかけだと思う。
そして一言「俺のピラミッドをこしらえるように」
そしてここからが本題
1974年バンバレーの工事が始まった。
その間ビンボーな若者に九州・久留米から東京出張をでっち上げ
パワーの元、牛肉をたびたび差し入れてくれていた。
若さと仲間の力で1977年ほとんど完成。
それを見にバンバレーに5日ほど滞在、五右衛門風呂にも入りゴキゲンだった。
明るい内はごろ寝、日が傾くと「夜道はくれない」と言いながら若い仲間と飲み明かしていました。
みんなからもらったあだ名は「夜の帝王」、今までは「飢饉カマキリ」だったが
何せ身長173pありながら体重は40s以下!!飢饉の時のカマキリみたいということで・・・。
約束通りピラミッド(お墓)を作る場所を決め工事に取りかかる。
いったん東京に寄り友人がやっていた小さなバーで初めて僕がおごる。
その狭さに驚きながらもうれしそうだった。
そのまま羽田まで送り最終便で久留米へ帰宅。
そしてその三日後、1977年9月12日、久留米のお手伝いさんより電話。
「危篤状態」
急遽羽田に向かうが間に合わず。
享年64才であった。
当時アメリカ・テキサスに住んでいた姉は第二子出産の間際。
連絡は控える。
その直後無事次男出産、生まれ変わりのようだ。
久留米にて葬儀、片付けを終える。
いつも通っていた4軒の飲み屋にも前日すべて顔を出していたようだ。
金銭的には「遺産は残さんからナ」の言葉通り借金もなく、すべて+−0であった。
2ヶ月後カード会社から東京〜福岡の航空券代の請求が来たが。
でもバンバレーというすばらしい空間を皆に残してくれた。
もちろんお骨はバンバレーに。
そのピラミッドには母、死産だった兄、祖母、僕の叔母、従兄弟、通世の父、
そしてバンバレーの仲間達も入っている。
賑やかが好きだった修ベエさんも満足だと思いたい。
そんなことがあり毎年お骨を納めてあるバンバレーでステーキ大会を仲間達と行っている。
そしてそのお肉はご仏前より支払っている。つまり今でも地主様・修ベエさんのおごりです。
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