NO5 轍(わだち)ルートを選ぶまで
1983年秋から12月4日
(今回のページは長いです)

198515 アルジェリア 400×280 
SAHARA-dawn

ここ30年ほど、年越しは山梨の手作り小屋で友達とお餅つきなどした後、
賑やかに迎えている。


海外で年越しを迎えたことも、たまにはある。
南極や、太平洋上で迎えた年越しはそれなりに印象的だった。


サハラ砂漠で迎えた新年は、、、、、。

1984年元旦、私たちはコートデウボアール出身のアブドライという青年と3人で砂の魔手に捉えられ動けないままのブル君車中で迎えた。
昨夜の残り物のおじやを言葉少なくすすっていた時、プラスチックの偽物お椀を両手で包んでアブドライが言った。
「僕の国にも同じような器がある!ココナッツの殻でできた器!」
砂の海のど真ん中で、大海原がチラッと浮かんで消えた。

ひとっ飛びでここまで来たのでは、もちろんない。
1983年の日記帳ノートは5冊。
ドイツ、ベルギー、オランダ、フランス、イギリス、デンマーク、オーストリー、イタリア、等々の国々や街々の名前が列挙され、撮影に走り回っている様子。

ふ〜ん、若かったんだね〜。
秋には一時帰国もしているよ。修べーさん(コーチャン父)の七回忌だったんだ・・・。
10月末からは、モーゼル河ぶどう畑の撮影しつつサハラ行き準備もいよいよ本格的に。
ガソリンタンクを積むためのルーフキャリー捜しは徒労に終わり、角材や金属製の机の脚などでコーチャンが手作りすることに決定。
ジプシー風東洋人の怪しげな行動にポリスチェックがはいったことも。
ヴィザの申請や、伝染病の予防注射、必要物資の購入と多忙な日々。

・・・・なのに、こやつら(若かった私たちのこと)は、そんなさなか、ケニヤ 行き航空チケットの日程を調べておる!
ナヌ?1月22日〜2月16日だと!
まだ、サハラに片足も突っ込んでないのに、、、、無事に帰れるかどうかもわからないのに、、、、
ったく、、、なんてやつらだ!と、ボヤく老婆心いっぱいのおばさんな私が、今ここに。

(このHP管理者コーチャン注記:風景カメラマンは季節選びが大事なのです、色々なことの同時進行も)

気を取り直して日記を読み返す。

フランクフルトにあるというアルジェリア領事館を尋ねあてるが、改築中、、、。
どうも、ボンにあるらしい。
ルーフキャリーを制作しつつ、モーゼル、ライン河撮影しつつ、ゆっくりとボンへ向かう。
11月5日・6日(土・日)

ボン手前30kmで、ちいさな町の素敵な公園を見つける。
駐車場に連泊。
ライン河は茫々とかすみ、北の海の風情。
朝霧のヴェールに包まれ、落ち葉のカーペットとベンチがロマンチック。
犬の散歩のおばあさまが、正装している日曜日。
公園内のレストランはダンスホールも備え、昼間からじじ、ばば様たちが睦まじくステップを踏んでいた。
よきかな。

7日(月)

週が明け、曜日に追われる日々。
公園は、早朝から巨大掃除機のごとき落ち葉収拾機と清掃車が駆けめぐり、雰囲気メチャクチャ。
ただちにボンへ。
鉄道の駅を捜し、構内の案内所でアルジェリア、日本、ケニヤ、マリ各大使館を尋ねる。
日本大使館にてコレラ、マラリア、黄熱病の予防注射場所(保健所)を尋ねる。

アルジェリア大使館でヴィザ申請。
ドイツ語、フランス語の和訳に時間がかかり、おのれの無知さ加減に腹をたてつつほぼ記入し、やっと提出。
その返答が、「ドイツ居住者のみ」に発行いたします、、、、、とは!
どーっと疲れ、ケニア大使館にお伺いをたてると、「1時間後に発行!」とか。
来年ここへ申請に来る時には、念のため往復航空券持参しようっと。

お次は保健所。
受付窓口で111号室を確認し、訪ねる。
若美人の白衣の人(女医さんか?)が、わかりやすい英語で「コレラとマラリアの予防注射は明朝8時にここへいらっしゃい。
黄熱病予防注射は違う所ですよ」とコピーの住所をくれた。
明朝は朝一なので保健所前のパーキングに泊まる。

夜中、アフリカが頭ン中を駆けめぐり眠れず。

8日(火)

朝一、保健所111号室へ。
昨日の白衣若美人さんではなく、貫禄充分な中年の女医さん。
早口の英語で半分以上わからず柔和だった女医さんの顔がイラついてくる。

コレラ予防注射の第2回目は、来週の月曜日。
マラリアは汚染地域出発、10日以上前に「打つのらしい」
これも2回「打つのらしい」月・木か、火・金に、少し多めに。

黄熱病のクリニックは美しい山の中にあり、予防注射は月曜日か金曜日の午前中とか。

ADAC(日本で言うとJAFみたいなもの)で車のカルネの件、尋ねると、カンタン!
保証金(銀行預け)と手数料払えば、来週火曜日にできるという。

やはり、マリが我らを呼んでるゼ!とマリ大使館へ。
ヴィザ申請書を明日提出すれば、これも来週火曜日にできるという。

書類のサインをウドさんに、銀行手続きをマコトさんにお願いするため、フランクフルトに踵を返す。
このふたりとは、家族ぐるみのおつき合い。
元を返せば友人のお姉さんのダンナさんだったり、友人の友人だったりするが、今ではドイツ在住の遠い親戚のようと、
勝手に私たちが思ってるのかも。
どちらかのお宅にしょっちゅう泊まり込み、お世話になっていた。
この日には、前述のケニヤ往復航空券の予約も取っている。

9日(水)

マコトさんの勤務先、旧東京銀行で車のカルネ手続きや残金引き下ろしなど。
ADACへカルネ申請、来週月曜日入手予定。
マリ大使館へヴィザ申請、やはり来週月曜日入手予定。ヤッター!!
これで、来週月曜日にパリまで走り、火曜日にアルジェリアのヴィザとマラリアの「注射」をやればすべて完了だ。
フランクフルトとボンを行ったり来たりした甲斐があったというもんだ。
「注射」に4日間かかるというのがチト、いやとっても、イタイが、、、、。
夜は疲れ果てて、マインツ(フランクフルト近郊)のホテルへ投宿。

10日(木)

マインツの大きなキャンピング用品屋や大スーパーマーケットでお買い物大作戦。
水タンク16L×3個、20L×1個、金属製ガソリンタンク6個、ガスタンク、靴の砂落とし用足台、材木、保存食品等々。
夜、ウドさん宅で話しが弾む。
アルコール問題、昆虫、は虫類、ストーブから人種問題まで。

11日(金)

ライン河を後にし、いつもながら濃霧の中ボンへ向かう。
一寸先も見えない、、、、と思ったら、霧は形となって木々を包み込み、山をはい登り、ふっと消えた。
そして突然、抜けるような青空に!
こりゃあ、さい先いいね〜♪

快晴のボン、大学のクリニックにて親切な青年医師の指示で、黄熱病予防注射とマラリアの「予防薬」処方箋入手。
黄熱病予防注射はなんと、10年間有効、コレラは6ヶ月有効とか。
注射と思いこんでいたマラリアは「錠剤」で、服用法が少しややこしいのだった。
思いこみの愚かさ、無知さ、ヤレヤレ、、、、。

12日・13日(土、日)

週末はボン近郊の森の中で森林浴、静かに過ごす。
3万年前の断層を見学、この星の来し方に想いをはせる。
夕陽に最後の黄葉が美しく、夜は満天の星空だった。

老若男女、赤ん坊に犬に馬、散歩好きのドイツ人の日曜日、森の駐車場は満車。
午後からストーブをつけっぱなしのため、夜には気化熱でボンベが凍り、ツララがつきほとんど消えそうに、、、、。

14日(月)

昨夜の冷え込みで、秋の撮影は終わった。
今日は待ちに待った月曜日。

・コレラの第二注射。
・ADACにてカルネ受け取り。
・マリの大使館にてヴィザ受け取り。
・郵便局よりヨーロッパから最後のフィルム送り。あとは、サハラだ!
・薬局にてマラリアの錠剤、二種類入手。

 服用法、マリ入国10日前に1粒、その後1週間に2回定期的に1種類ずつ。危険区域脱出60日後に各1粒服用。

どんどん、どんどん、走ってフランス入国。
パリ東方130km地点、高速道路のパーキング泊。ここは慣れた泊地。

15日(火)

パリ入城。
観光案内所でアルジェリア大使館の場所を尋ね、大使館にてヴィザの申請。
何やらゴチャゴチャ言っている、、、、。

「日本大使館へ行け。理由はそこの壁に貼ってある」と。
壁の張り紙を書き写し、ブル君に戻り辞書と首っ引きでなんとか翻訳。
どーも、フランス15日以上の在住者しかヴィザ発行しないような、、、それでもなんとかなるだろうと、日本大使館へ向かう。

「あ、観光ヴィザ?パリでは無理だね」とすげない返事。
エッエー!?そんなバカな、2年前はあんなに簡単だったのに、、、、。
アフリカの情勢が流動的だということを思い知らされる。

アルジェリアのヴィザが取れなければ、サハラ行きもダメ、マリもダメ、カルネも不要に、ガソリンタンクも、水タンクも、保存食品も、
そして、なにより気分が最もダメ!!

アルジェリアの隣国チュニジアでなら、ヴィザ取得可では!?
幸い、チュニジア入国はヴィザ不要(3ヶ月以内)なのだ。

国際フェリーでチュニジアへ渡ろう!
すべてのお金をフランスフランに換金し、一路南下、マルセイユを目指す。

16日(水)

夕方4時、マルセイユ港着。
何やら大阪風国際的大都会だ。
SNCF船会社に直行。
チュニス行きフェリーは「金曜日午後6時出港」、エコノミークラスとキャビンクラスの差額1万円とか。
街なかはラッシュ、アラブ人風外国人がいっぱい。
港には、ヨットもいっぱい。
やはり南は暖かい。
ヤッケもセーターもなしで夜の港に立ち、ついでにバーでワインを仕入れる。

17日(木)

20km北の大きなスーパーマーケットへ最後の買い出し。
ガソリンタンクは計8個、160L分。
ベンツ屋にてオイルフィルター、オイル交換(153154km)
ファンベルトは明日入荷。

夕方のラッシュの高速道路で港へ戻り、久しぶりの日本食を作る。
メバルとコチの親戚みたいな魚の煮付けとみそ汁など。

18日(金)

朝一でフェリーのブッキング。
迷った末、キャビンクラス往復にする。無事アルジェリアへ入国できれば片道分はご祝儀だ。
帰路チケットがあればヴィザ取得の容易になることが、まま、あるので。
4時乗船準備、長蛇の列はいずこも同じ。

我らがフェリー、「LIBERTE」とは「自由」の意味、前途に希望が!

キャビンクラスの船客となる。
エコノミークラスは物置の中にブタとニワトリとサルを放り込んだような騒ぎ。
こちらは絨毯を敷きつめた個室で高級ホテル風、中間はないのか!?
もちろん三食付きで、フルコースデイナーの前にはバンド演奏のバーで食前酒の杯かたむけながら船長の挨拶を拝聴。

私は特上ワインでフラフラになり、早々にベッドへ。
コーチャンは食後のダンスを楽しんだとか。
今度長距離フェリーに乗る時は、オシャレ着を用意しようっと!

19日(土)

静かな波の船旅を楽しみ、6時前チュニス着。
引っ越し荷物のような手荷物の列。

人の行列は背中とお腹をぴったりくっつけて、ネズミの子いっぴき横はいりさせないゾ!という雰囲気。
コーチャンが釈放?になったのは8時半頃。

フラミンゴとペリカンのいた懐かしい海沿いの道を走り、チュニス市内へ。

20日(日)

静かに過ごしたんだ、きっと。

21日(月)

アルジェリア領事館へ直行。
すっかり書き慣れたヴィザ申請書をスラスラと書き、写真4枚と共に提出。
「え〜、いつ発給でしょうか?」
「明日、11時にどうぞ」
ググッ、ついにやれそうだ!

22日(火)

ヤッター!
ついにやりました!!
アルジェリアのヴィザ取得と、もうひとつ。

砂脱出用鉄板、2枚入手。
巾5〜60cm、長さ2m位の丈夫なぶ厚い鉄板に直径5cmほどの穴が2列ズラッと開いている。
砂に埋まった時はこの鉄板をタイヤの下に敷き、脱出を計るというスグレモノ。
サハラ砂漠を縦断する車は必ずこの鉄板を積んでいるが、市販はされていない。
どこで手に入れたもんだか、、、、。


何度書いたか、この絵を!
コムサー(訳・こんなの)
まず、観光案内所で鉄板のありそうな車部品屋エリアを尋ねる。

ここからの会話は絵とジェスチャーのみ。

→ 自動車屋街の部品屋→ 溶接屋→ 大きな鉄製品屋→ 鉄工所→ クズ鉄屋『ここで入手』→溶接屋『ここでサイズに切ってもらう』

いよいよサハラ行きの気分高まり、チュニスを出発。
常緑樹地帯より乾草の原野が広がる、KAIROUAN(カイルアン)のオアシスへ向かう。

23日・24日(水・木)

道路は2年前よりかなり良くなっており、高速道路並の350km。
あの懐かしいTOZEUR(トズール)のオアシス、お湯の小川の流れるオアシス。
さっそく、小川温泉で行水、今までの気疲れを川に流す。
ハエが多いけど、ゼイタク言ってられマヘン、これも慣れなくては。
冬物の洗濯やら、夏物衣類を出すやら、鉄板をルーフキャリーに取り付けるやら、準備色々。
ガフサ織りの町再訪、見事な色使いに感動再び。

25日(金)

チュニジア最後のオアシス、トズールをあとにして国境へ。
チュニジア出国後、無国籍地帯を3kmほど走ってアルジェリアのポリスチェックポイントへ。

入国カードをチェックしていた係官が、「プレパラシオンは?」とのたまう。
ウドさんのタイプ用紙を見て「スタンプがないとダメ!」ゴチャゴチャ言ってみるが「どうしても、ダメ!」
とうとう、チュニジアへ追い返されるはめに、、、。

チュニジアへ再入国し、別の国境目指して無言で走る。
日本のコインでスタンプを偽造するか?
税金申告用の日本語のハンコでも押すか?
いや、待てよ、カルネがあるではないか!
あれにウドさんのサインはなかったか?
車を止め、書類入れを捜すと一枚の紙切れが!

それには頭に「プレパラシオン」と書いてあり、ADACのハンコがボーンと押してあるではないか!
ここぞ!という時にドジを踏むドジな私たち、、、、。

ユーターンも考えたが、気分が悪いのでやはり別の国境へ。
トズールへ引き返し、ガフサを通り過ぎ331km走ってTebessa(テベッサ)近くの国境着。
ここの係官はとても親切で、大層冴えた男だった。

1人1000DA(2人で約11万円)の強制換金はイタイ。
このお金は出国の時に残っていれば全て差し出さなければならず、つまり、「旅人よ、わが国でそれ以上使え!」ということになる。
係官はすまなそうに説明してくれたが、彼の責任というわけではない。
入国手続き無事終了、アルジェリアへやっと入国。

このあたりから、日にちや曜日にこだわる必要もなくなった。

昨日の入国騒ぎを払拭し、記憶をたどって懐かしのオアシスを過ぎる。
EL Oued(エルオウエド)からTouggourt(トウグール)へ。

ここでキャンピングガス(ブルーガス)を補充、大タンクからポトポトと入れる。
1時間かかるが、チュニスの3日よりまし。

今夜はGhardaia(ガルダイア)のグランホテル泊。
砂漠では強制換金したお金の使い道もないので、大きなオアシスではホテルに泊まることにする。
久しぶりの風呂だが、「水」しか出ない。
「水」の出ることがラッキーだったと、のちに判明したが、、、。
バケツの水を電気ヒーターで沸かし、ぬるま湯にして使用。
この電気ヒーターは12年前にインド旅行で使っていた物。ちゃんと使えた。

翌朝、蛇口ひねれど「水」は出ず、ブル君の洗面所で顔を洗う。
ここは、「砂漠」なのだ。
朝食後、やっと出だした水で洗濯、そして出発。
洗濯物は走ってる間に、車の中で乾いてしまう。

走れど、走れど、広い、ひろーい!!大地。ドライブ気分最高!!
陽の傾く5時頃、会えました、逢えました、あのオレンジ色の砂丘に。
これを見たくて、ここに泊まりたくて、私たちはやって来たよ、はるばると。
水もたっぷりあるし、3泊はしたいね。

はだしで砂丘に触れる。
夜は満天の星々。流れ星、時々。
願い事が多すぎて間に合わず、何度も外へ出る。

朝7時、夜明け前の明けの明星と半月。
砂漠とのスカイラインは金色、ピンク、淡いブルーから深いブルーへ。
気温10度、ヤッケを着込み、ブーツを履いて、外でのコーヒータイム。夜明けのコーヒー、贅沢な時間。

一日中砂丘で過ごしたかったが、昼前には風が強まり砂嵐の兆し。
EL GOLEA(エルゴレア)のオアシスへ逃げ込む。
ここではなんと、スーパーマーケットを建設中。

ガルダイアやその近くの町でも拡張工事が目についた。
だが、サハラの砂丘に人工物は、ない。
ヒトの暮らしを寄せ付けない厳しさ。だからこその美しさ。

砂丘で絵を描くことに初挑戦。
カメラの三脚にコーモリ傘を突っ立て、布帽子の上からスカーフを2枚かぶり、鼻から下をもう一枚のスカーフで覆う。
そしてサングラス。ゴクローサン。
呼吸するように吹き続ける風、射るような熱射光。
そして大敵はハエの大群。わずかにのぞいている目玉に止まろうとするのだ、マケタ、、、、。

砂丘は、肌黄土色から刻々と変化し、太陽の方向は銀色の波。

日没・・・・
今しがたまでオレンジ色をして強く迫っていた砂の山々が、淡く優しい色合いとなって
私たちをしーんと、取り囲む。

日没後しばらくたつと、太陽は日の出前に見せるピンクの大きな丸い明かりとなって空を染め、その在り処を再び天空に映し出す。

その後は地平線に金色の弧を描き、星を呼ぶ。
一番星を捜すのが毎夕の楽しみでもあったっけ。

それをながめながら、夜明けのコーヒーの丁度逆さまを頂くことも。

夕闇の中で、ひょろひょろの立木がヒト型に変わり、音もなく近づいて来るかに見え
・・・・その時はコワカッタ、、、、。

12月2日 Timimoun

少し風が強まりそうなので砂丘砂漠を出発、へここからは初めてのルート。
Timimoun(テイミモン)のオアシスは赤レンガ色が美しく、ホテルも立派。
今日は、ここでゆっくり過ごす。

12月3日 Adrar

ミシェランの地図では国境印と良い水印のあるAdrar(アドウラ)へ。

その前にパン屋の前で並ぶ。1軒目は早々にあきらめ、2軒目に。
ここも人の行列、、、、というか、人だかり、わんさか。
次のアドウラ・オアシスで買うことにするが、ここでも3軒目でやっと手に入った。
あわてて3本も買ってしまうが、、、、日に日に気温が上昇している様だ、、、、食えるかな?

12月4日 Reggane
水・132L 満タン、ブル君用食料ガソリン・160L+60L 満タン。
いよいよマリコースへ向けて出発の気分。

AdrarからReggane(リガン)までの185kmは出来たてのグッドロード。
RegganeオアシスからIN Salah(インサラ)方面も舗装道路。

私たちの選んだ行く手は、轍(わだち)ルート。
これがマリへ直接通じる唯一のルートなのだ。
ポリスに明朝出発の届け出をする。
水、ガソリンの量を報告。

フランス人カップルのジープが夕方出発。
乗用車のスイス人3人組はすぐそばでキャンプ。