旅のお土産話トップへ戻る  旅のお土産話 vol.3
17:40 いよいよカピンガへ頭を向ける。
 
 18:30 翌早朝カピンガマランギのパス通過予定。
 そのためにはスピードがありすぎるので主帆を縮帆、前帆も巻き取る。
 艇速をぐっと落として超のんびりセーリング。
 21:21 林のケンチャンへゴキゲンな衛星電話
       (注;ヨットデザイナー林賢之輔氏、 HINANOの生みの親) 
 その後、上弦の月のもと、コックピットでヨコシマサワラの昆布〆や
 刺身でワインの栓を開ける。
 セーリング中は飲まないはずのツーセも珍しく杯を傾ける。
 コーチャン、ワッチオフ、「一時間後に起きるから」と早々に寝てしまう。
 片付けものをしつつ、一人でお月見。
 底に残っていたワインも片付け、のんびりセーリングのもと、
 久しぶりに酔っぱらっちゃた〜、 という感じ。
 
 2月15日 00:00 ログブック記入、海図に位置を入れる。
 対地速度5.8ノット 、残航 24.8海里。「月光いよいよさえわたり、海いよいよ平和なり」
 
艇長一杯機嫌でぐっすり寝入っている。「一時間以上、とっくにたったのに、 ま、いっか、平和なんだから」とツーセも寝てしまう。
 03:00 チラッと時計を見、チラッとコーチャンを見る、まだ寝てんのー?。
 04:00 GPSのアラーム鳴る音を夢心地で聞く、「GPSがまたひとりごと言ってる、
 ドーシテカナー?」 と思いつつ再び寝てしまう。
 
そして耳をつんざく衝撃音、激突、
 
「ナ・ナ・ナ・ナンダ?!!」と思うより早く飛び出したコーチャン。
舵を握りながら叫んでいる。
「ダメだ!ダメだ!バカだー!大バカだー!」
 
北緯01度01.96分、東経154度47.90分 04:00過ぎ

後日、記したログブックと日記より、
 
全力後進でも脱出出来ず、同時に帆を降ろす。このときすでに右へ横倒しに・・・・。
錨をリーフ(環礁)の外側に打つ(これ以上の乗り上げ防止のため)。

HINANOに「ごめんなさい」を連呼しつつ、「大バカ者め」と自分をののしりつつ、「大丈夫、ダイジョウブ、だいじょうぶ」と胸の内で「大丈夫経」の念仏唱えつつ、無我夢中で出来る限りのことをやる。斜め横倒しになっているHINANOに打ち込む波頭。

波の轟音、船体が岩に打ち付けられ、今にも壊れそうな音、コーチャンも自分を責めつつ何かしている。
何かしていないと身が持たない。私に出来ることと言えば、甲板灯に照らされたコックピットやデッキに散乱するロープ類をまとめ、足元をクリアにする事位である。

この段階では、まだ左船窓は開けていた。が、ほとんど天窓状態で、床は斜めの壁状態だった。
キャビン内の散乱した物を動かないところへ押し込む。目前の黒々とした島に、人は住んでいるのか?GPSの記録から海図に位置を入れる。とにかく「命」だけは「大丈夫!」
 
陸上連絡基地、宮沢氏へ報告のTEL、高齢の両親へは「無事」到着のTEL。
「イザ!」という時のために足船を降ろすが波でひっくり返る。ボートフックでたぐり寄せ、スピンハリヤードで吊し正常に戻す。

夜明けの空、島影から出てきた本船発見!明るくなりかけた水平線に大きな船の姿が浮かんだ。
夢、、、、夢のような姿!
VHF無線16チャンネルで救助要請。
「穴はあいているか?」「開いてない」「乗員に問題はないか?」「大丈夫だ」

乗客を降ろし、曳航ロープ200メートル(直径75_)を用意して戻ってくるとのこと。
 
潮が上がりHINANOの船体も浮き上がり左右横転を繰り返し始めた。
錨が抜け、舵板が波にさらわれてゆく。

悲鳴を上げながら暴れ回るHINANOのキャビンの中で、お大事物をABCDランクに分ける。

A
:パスポート、お金、衛星電話(カピンガマランギには、電気も電話もない、
  クレラップの芯を利用して乾電池で電話用電源確保工作)、ハンディ無線機 
B:ログブック、住所録、着替え一組
C:撮影済みフィルム、スケッチブック、日記
D:カメラ、可能ならば持ち帰りたい品々・・・、という具合。
 
一時間後位か、ふと気がつくと、島の男達が10人程、船外機付きの小舟に乗ってHINANOの側にいた。皆、無言。5,6人がHINANOに飛び乗り、錨を再びきかせて曳航ロープ取り回しの準備作業。HINANOの足舟は島民が預かる。

沖にいよいよ本船到来、小舟2ハイが曳航ロープを積んでやって来た。島民と合わせて4ハイの舟。75_のロープを船尾から全体に取り回すが途中で切れてやり直し。その間中、HINANOはうち寄せる波と岩礁にたたかれ続け、島の男達は舟で大波の合間をぬいながら、果敢に荒波へ飛び込み、海中作業。ちょっと間違えば珊瑚礁のとがった岩に全身打ち付けられ、大怪我の危険がある作業だ。私は手に汗握り、祈るばかり。
 
本船(800トン)、その名も神々しいMICRO GLORY(マイクロ・グローリー)に200bのロープが届き、いよいよ離脱開始。きかせていた錨のロープをナイフで切断。岩礁に乗り上げ座り込んでいたHINANOがゆっくりと立ち上がる。

09:20 リーフをすり抜け外洋に浮かぶHINANO!。
印象的な小島を通り過ぎ、リーフのパスに近づく。本船に曳航されたままでのパス通過は無理があるので、ここで太いロープをはずし、小舟に引っぱてもらう。
船首からのもやいロープで、はじめは1パイ、そのうち3バイの舟が引っぱってくれ、1パイは予備として伴走。

マイクロ・グローリーは環礁中程に錨を下ろし荷揚げ作業を開始している。波ひとつないリーフ内。暑い。我に返ってデッキ上の人達4〜5人に水、コスラエ・ミカン、バナナ、エータローあめ等差し上げる。水は「安全な水」だからと説明。それでも飲まない人がいた。生水に対して用心深いのだ。コスラエ・ミカンには全員「感動!」していた。ありがとうテツさん。
さっきまでの地獄がウソのように、デッキ上はアメ玉しゃぶりながら「ほっ」と一息の感じだが、舟の人達は気の毒である。
暑い中、スピードを上げるわけにもいかず、お互いバランスを取りながらの曳航作業・・・・なんともはや、ほんとに、どうも、ありがとうございます。
水深8b、橋の真正面で投錨。エンジンがかかるお陰で、いつもの投錨と同じ様に楽である。水漏れなし!船底からは一滴も入ってない幸運。キールボルトもゆるみなし。
 
HINANOの足船をもらいうけ、マイクロ・グローリーのキャプテンへあいさつ。名前は、なんとMr.YOSHIROU(ヨシロー氏)。名前だけでも親近感充分!あったかい大きな人格の人。
曳航代を尋ねると「そんなものはいらない、海の上の者同志。私の気持ち」だという。そんな気持ちがうれしくて、コーチャン、思わずキャプテン・ヨシローに抱きつく。
ニュージーランドからの回航途中、ニューカレドニアのヨットハーバーに貼り紙があった。座礁ヨットを助けるための募金お知らせだった。フツーは、とんでもない大金が掛かるのだ。
 
この時点で、ポンペイまでの曳航は考えられず、大きな船に乗せて帰りたいがとキャプテン・ヨシローに相談。「2,3週間後にソロモンより大きな船VOYAGER(ボイジャー)が沖合を通過するはず。その船は10トンのクレーンを持っているので可能だ。」との事。
ボイジャーのキャプテンもまた、その名がYOSHINO(ヨシノ)さん!島のチーフに無線で問い合わせてもらうように言われる。
 
マイクロ・グローリーは2ヶ月ぶりの入港で、しかも予定より2日遅れて着いたのだそうだ。
次の入港は4月の予定とか。 実に奇跡的なHINANOの生還!航行不能ではあるけれど・・・・・。
 
お礼の気持ちとして差し上げた、HINANOハッピ、Tシャツ、テヌグイのセットを快く受け取って下さり、私達の足船を見送って下さったキャプテン・ヨシロー。

マイクロ・グローリーは15:00出航、あわただしい時をぬっての救出作業だったのだ。
 
上陸して島のチーフSAKIAS(通称サキ)へ挨拶。
ボイジャーのキャプテン・ヨシノとは知り合いだし、無線問い合わせもOKという。
「とにかく今は疲れているだろうから、ゆっくりお休みなさい。」と笑顔でねぎらわれる。
私達の「海の家」、HINANOへ戻って休むが、よく眠れない。
当たり前だ。器量よしの一人娘HINANOの足を不注意の大マヌケで、折ってしまったのだから・・・・・。
 
<愛艇HINANOについて>
 
HINANOはポリネシア(タヒチ)語で「娘さん」の意味。
子供のいない私達はヨットHINANOを一人娘だと説明します。

若い頃、仕事を兼ね、初めて赤道を越え、タヒチへ向かいました。4回目の結婚記念日(4月4日)をそこで迎えたかったのです。珊瑚礁の海は明るいエメラルドグリーン、沖にリーフの白波、その向こうは濃紺の外洋。ここカピンガマランギと同じです。
沖合に真っ白な帆を上げて走るヨット。溜息の出るような風景。ヨットのヨの字も知らないその頃、「もしヨットが持てたら、名前はHINANOにしようね。」と若い夢を語り合ったのでした。タヒチの地ビール、HINANO・BEERを片手に・・・。
後年、夫、コーチャンがヨットをやりたいと言いだした時「そのうち、40歳になってからね」ということでしたが、あっという間に四十路です。彼は仕事を一年休んで風を学ぶべくディンギークラスに通い、クルーザーのノウハウを拾得し、ヨット三昧。

私はというと、船に弱い、方向音痴、運動神経が鈍い、機械に弱い、おまけに半カナヅチ、というヨットにはまるで向かないタイプ。ひとつだけ向いていた、「旅が好き」ってこと。
その頃、私達は手作りのオンボロ・キャンピングカーで、ヨーロッパ、アフリカを巡っていました。仕事とアソビを兼ねたジプシー生活。
日本から公共の乗り物に頼らず、生活しながら旅をするには「ヨット」しかない、ということで始めたヨットです。
終生ビギナーの覚悟でヨットに乗っている私。女の勘だけが頼りです。
 
ヨット・デザイナー・林賢之輔氏に設計を依頼して7年がかりで、,42 Ft(12m)図面完成、建造はニュージーランド.で1年がかり。

その間、夫は林さんと共に、N.Z.へ何度か飛びました。HINANOの制作過程をチェックするためです。
なにしろ、一人娘ですから!私も、たまには同行。命を預ける大きな乗り物の出来上がってくゆく様子は感動もんでした。沢山の手で産まれ出されている感じ〜。
内装は「カウリ材」。森の父とも呼ばれるカウリの木。
先住民マウイ族・ポリネシア系海洋の民が丸木舟を作っていた木(今は伐採禁止)です。
ある日、森へ会いに行きました。憧れのカウリの大樹は大きく、大きく、まっすぐ天を仰ぎ、可愛い葉っぱも印象的でした。深い森の向こうに、海が光ってたっけ。「海を守るのは、森」「漁師は森に木を植える」、ということは、魚は森で育つのか!?そう、そう!と素直にうなずける深い森、豊かな海が目前にありました。
N.Z.では鯵や鯛が入れ食いだったのヨ。漁労長大活躍。
1996年春、進水。4人にひとりはヨットを持っているというヨット大国N.Z.では、毎週気楽にヨットレースを楽しんでおり、HINANOも仲間入り。私も初体験で大満足。

そして、仲間5,6人と共に3ケ月かけて日本まで回航。

1998年春、はじめてのダブルハンズ沖縄航海。今回と比べるとキビシイ海面の連続、しかも故障続き。
そして今回は・・・あまりにも平和すぎ、ハッピーで、海に甘え、HINANOに甘え、怠慢な眠りをむさぼり、女の勘はどこへやら・・・。
 
そんな私達に、上出来の一人娘HINANOは怒ったのです。
主のいない上出来のヨットは風力自動操舵でピタリと風に合わせ座礁すべくして座礁したのでした。
何度謝っても謝りきれないHINANOへの気持ち。そして生みの親・ケン様、主治医・油壺ボートサービスの皆様、里親(HINANOの仲間達)、特に今回連絡係を務めている宮沢の俊ちゃんには益々面倒をかけることになるかも・・・。
 
・・・が、良いことだって山ほどあります。気分をそちらに向けましょう。
まず奇跡の生還、誰一人怪我もなく、HINANOに穴も開かず、エンジンも調子よく、しかも2,3週間後には船積みしてくれそうな大型船が通るという。こんなラッキーな座礁の仕方ってスゴイ!ラッキー!!ラッキー!!!
そして周りは珊瑚礁の島々。ヤシの葉が風に揺れ、8b下の海底まで見える透明な海。太陽いっぱいの空。
もしかしたらHINANOは、ここカピンガマランギに長居させてくれる魂胆だったのかしら、と考えてもみたくなります。
これから少しずつ、カピンガマランギ環礁のお土産話をお聞かせしようと思います。

では続きを、お楽しみに!。
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