NO,9 ニジェール河を渡って
1983年12月12日〜13日
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1983年12月12日(月) Gossi近郊 泊
ポリス近くは旅行者の車で賑わっていた。
あのポーランド隊の2台もいる、久しぶりの再会。
ひとりが大怪我をして全員徹夜だったとか、みんな疲れきっていた、、、、。

ガオ到着後3日も経ってからの到着手続き。
ポリスはフランス語のわからない私たちにわかりやすい英語でひとつ、ひとつ訊いてくれた。
内容はホテルの用紙と同じ、両親の名前を書くところが他の国とひと味違う。
親の名前で部族や出身地などがわかるのだろうか?
銀行と市場をひとまわりしてからパスポートを受け取りに行く。
フェリー乗り場は7km下流ということでガオの町を離れた。
また会う日まで!
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ビンロウ樹繁る河畔の道は、数百mがアスファルトだった!
フェリー乗り場にはポーランド隊が先着しており、1時間待っているという。
長い時が過ぎフェリー到着、台船のような形をしたフネ。
3台しか乗れないのでブル君は次の便。
退屈はしない。
ひとなつっこい子供たちが何かと話しかけてくるのだ。
レゲーのテープがひどく受けた。根っからの音楽好き。
友人に似てオシャベリな男の子に「アワジシマのタコ」というセリフを教えたりして時を遊んだ。
そうこうしてるうちにフェリーが戻って来た。
ラクダが乗っていた、砂漠の船といわれるラクダもさすがに河は渡れない。
ロバもいる、羊もいる。
それから1時間ほどで無事乗船、コーチャンはブル君の屋根に登ってニジェール河を満喫していた。
青々と繁る芦、男たちは河の水をそれは旨そうに飲んでいた。とても真似はできないけど、、、。
豊かな水の流れ、ゆったりとした気分で対岸へ渡り、次の大都会Mopti(モプテイ)を目指す。

なんと、ピカピカのアスファルト道路がずうっと続いている!
途中ポーランド隊がキャンピングしていた。疲れたので早めに泊まるのだという。
それにこのピカピカ道路もすぐに悪くなるとか。
まだ5時前なので私たちはもう少し走ることにする。
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立派な道路を人々が歩いている。
あっちからもこっちからも、テクテク、テクテク歩いている。
その光景は、私の中に焼き付いている忘れられないシーンのひとつだ。
「ヒトは二本足で歩く」
移動する手段として、鳥は飛び、魚は泳ぎ、牛馬が四本脚で歩くように、ヒトは二本足で歩く生き物なんだ、と妙にナットク、
あらためて感じ入ってしまった。
家路を辿っているのだろうか、歩く、歩く、歩く人たち。
車は?
たまに、荷車が通る。家族や農作物を乗せて、ロバやコブ牛が引いて行く。
おっと、あれは自転車!
かなり珍しい。漕いでいるヒトもやや得意そうにみえる。
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ライトバンの故障車が止まっていて、タイヤがメチャメチャ。
じいさまが若い男ふたりをGossiまで乗せてくれ、という。
ふたりが町からタイヤを持ち帰るまで(何日かかるか?)じいさまは車に泊まるとか。
水と食べ物は持っているようだ。
アスファルト道路をビュンビュンとばし、あっという間にGossiに着いてしまった。
お陰様で今日は1時間半で160kmも走ったことになる。
(歩いたら何時間?何日?)
ここから先は悪路のようなので沈む太陽と追いかけっこで寝場所捜し。
硬い地面のアカシアの茂みの中が今日の泊地。
今夜は久しぶりにご飯を炊き、最後の卵とポテト、サラミの炒め物に新鮮野菜サラダ。
この夕食が出来上がるまで男がひとり、そばに立ってじーっと見物していた。
ラクダに乗ったトワレグの男も偉そうに見学にやって来たが、すぐに踵を返し立ち去った。
月光の下での夕食後、後部ドアを開け、寝っ転がっての贅沢なお月見。
と、闇のかなたから歌声が聞こえてきた。
北欧のヨイキのような、なんともいえない節廻し。
単調なリズムが朗々と流れる。
息をひそめ聴き入ったナマの歌声。
月光のもとでのアフリカンライヴは近づき、そして闇のむこう、部落の方へ消えていった。
明日はどんな道程が待っているだろうか。

12月13日(火) Honborri少し過ぎの部落附近 泊

デコボコのそれでも道らしきを走る。
赤い片栗粉のような粉埃がブル君全体を覆う。
スピードが出せないため粉埃がフロントガラスをドバっと襲う。
道らしきも、やがて鉄砲水災害でズタズタとなり、再びブッシュを走ることに。
グリーンロード(風光明媚な地図上のマーク)の山々。
タマンラセット・ホガーマウンテンの親分のよう、その10倍はあろうかという奇岩が迫り圧倒される。
が、足元をさらわれ、景色どころではなくなった。
子供の見物人がちらほら、やがて大人もやって来た。
デフの埋まりが思ったより重症、、、。
中国人のようなじいさまがニコニコと見守るなか、ふたりで砂掻き。
そのうち子供たちがぞくぞくと現れ手伝ってくれた。
鉄板運び係、砂堀係、車押し係。
十数名の黒い小さな手足でブル君を少しづつ進める。
この十数回の脱出作業はリズミカルに楽しく進んだ。
難所を切り抜けたブル君の後部に勇敢な?2、3人の子が掴まって安全地帯まで突っ走った。
大人にはタバコを一本ずつ、子供にはビスケットを一枚ずつ・・・・・と思ったけど、
花火のようにひろげた手のひらが差し出され、ビスケットの一箱は粉々になって消えた。
すっごいエネルギーだっ!!。
たくましい子らよ、サラバじゃ!

草葺き部落を後にした。
が、またすぐに埋まってしまった。
この度は自力で脱出、子供と大人ひとりずつの見物人あり。
ここいらはゆっくりとタイヤを転がしながら、草の砂地を走るべし。
まさか、ニジェール河を越えこんな所までやって来て、脱出作業が続くとは!!
とても疲れた、、、、。

そのうち岩場となり、道はソロバン街道、振動を同調させるスピード(時速50km位)を捜しながら走る。
壮絶な車内は見ないようにした。
今までのうちで最悪。
すべての物が砂色の保護色、髪も顔も全身が砂色。
ウ、ン、ザ、リ、、、、、。
この辺はどこに部落があるかわからない。
住まいは草葺きの半円形、テント風の小屋でそれが背の高い草の中に埋もれているのだ。
Honboriを過ぎて早めに泊まることにした。

フトンも、イスも、テーブルも、壁も、食器も、床も、天井も、ガス台も、蛇口も、カーテンも、窓も、
なにもかもに粉ボコリが積もっている。
とにかく寝られる状態にしなければ。
コーチャンの砂色顔には疲労の色が濃い。
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メドがついた頃、暮れなずむ草地を分けて子供を負ぶった母親が来た。
母親は何やら言いながら子供を背中から降ろし、やおらその子のシャツを脱がせた。
シャツといってもちぎれた布きれ、ボロ雑巾のようなしろもの。
ぽんぽんに膨れたお腹がコバルトブルーに塗られている。
5〜6才の男の子、顔も青く塗られ、目には力がない。
栄養失調だろうか、、、、。
この青い色は、呪い師の手によるものか?
何か薬を呉れ、と言っているようだがどうすることも出来ない。
おばあさんもやって来て、身振り手振りで訴えている。
つらいので見ない振りをした私たち。
気休めにじゃがいもと玉ねぎ、ニンニクを手渡した。
ごめんなさい、、、、。

一晩中寝苦しかった。

(このHP管理者からのコメント)
その頃日本ではアフリカといえば=餓え=かわいそう=援助といったイメージしかなかったし
そういったニュースがテレビや新聞などのマスメディアでも流行のごとくあふれていた
私たちはこの日本人特有の「流行」にいささか疑問を持っていた。
確かに餓えはあるし悲惨な争いもある
でもそれらのほとんどの原因が「文明社会」と言われているところからの身勝手から来ていて彼らは被害者である。
それを「かわいそう、援助しなくては、助けなくては」となってくるのは大いに疑問を感じるのである。
旅を続けていく内その援助がいかに無駄な、又ただただ援助する国の儲けになっていることを幾度となく突きつけられてきた。

誤解される事覚悟で言うならば、それらを体験してきてなお悲惨さも実感した上でなお伝えたかった事があるしこれからも私達の作品を通して伝えて行こうと思っている。
それは「人間本来の美しい豊かさ」である。
「私達の豊かさ」以上に地球上に「豊かな人々がいる」ということを

今こうして文系社会といわれている世界に身を置いていると
いかに私達が貧しい世界にいて、これまで出会った人々から沢山の「豊かさ」を頂いた事に本当に感謝している。