NO.18   エピローグ

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地平線とブル君
一木一草生えていない本物の砂漠に憧れて「サハラ砂漠」へ向かったのが1980年。

サハラ砂漠の向こうまで行ってみたいと「サハラ越え」に挑んだのが1983年。

そして今、その旅を掘り返してみた2007年。

 

2000年にヨットで赤道直下の環礁を目指した私たち。
その航海は自分たちのミスで「座礁」。
島の人々に救われ、海の民の暮らしと心根に触れることが出来た幸運は、まさに、禍福はあざなえる縄の如し。
(ヨットひなの・旅のお土産話Vol.3〜 参照)

砂の海サハラを想う時、あの大海原を想い、世界の屋根チベットの山々へ想いをはせてしまう。
チベット族の人たちは貝の装身具を身に付けている。
そして仏具にも貝のカタチがある。
太古の昔、あの山々は海の底だったのだ。
サハラ砂漠からは樹木の化石が出土する、不毛の地に緑したたる森林の時期があったのだ。

地球の歴史、宇宙の成り立ちは「神の手」で成されていると、実感。
海も山も砂漠も美しく、恐ろしい。

大自然の前でヒトは無力・・・・。

が、そういう地域で暮らす人たちの知恵と勇気と心の寛さに共通点を感じたのは旅人の特権?

助け合い、守り合って暮らすのが生活の基本なんだ、ほんとうは。
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Villagae Life
道に迷った私たちを安全な所まで導いてくれた老人の後姿。(NO,14/12月26日参照)
炎天下、裸足で遠い道を帰って行くその人の持ち物は肩に渡した一本の杖(棒)と手斧一丁。
忘れられない姿。

忘れられない辛い出来事もある。(NO,9/12月13日参照)
青く塗られた膨らんだお腹、力のない瞳、、、栄養失調の男の子。
少しの食べ物は差し上げたが、その後私たちは長期保存牛乳が腐ってしまって捨てたのだ。
あのとき、あげればよかったのに、、、と、いまだに心が痛む。

帰国した私たちを待っていたのは「アフリカを救おう」キャンペーンだった。
雨後のタケノコの如く、いくつものボランテイア?グループが新聞に名を連ねていた。
大好きなお世話になったマリ共和国の人たちに少しの恩返しが出来ればと、いくつかのグループに義援金を送った。
そのうちに選んで減らして、今もつながっている尊いグループがある。

「マザーランド・アカデミー・インターナショナル」
(命の等しさ尊さを行動で子供たちに伝える母の会) 代表 村上章子さん

・マザーランドは義援金や物資を送った人名の印刷物配布など、ムダなことはしない。
・物資は自分たちの手で品川埠頭にて箱詰め、コンテナに鍵をかけ直接現地へ届ける。
(援助物資の毛布が野積みにされ腐っている現状を目撃、、、。物資がマーケットで売られている事もしばしば目にした私たち)
・運搬船の手配、現地での陸路輸送の手段と便乗。全部母たちの手と身体と頭脳で!
・子供たちを一緒に連れて行く。
・一握りの米集めが、バケツでの稲作りとなり、今は休耕田や協力田で子供たちと共に稲を育て収穫し、現地で配っている。
・現地で子供たちと一緒に水田作り、植林、学校・・・・ETC

合い言葉・「グチと昼寝は死んでから」
ある年こんな写真を送って下さった。

私たちの送った義援金で井戸が出来た、と。

場所は、私たちが行くのをあきらめた最終目的地の
トンブクトウ。

「久我耕一・通世」と書いた紙を用意しての記念写真!
昨年の義援金は「水田作り」に加えて下さるとか。
それは、マリ共和国サハラ砂漠南端地域で進行中の子供たちによる“緑の革命事業”のひとつ。
こんな活動を20年以上続けている素晴らしいグループ!
幼稚園での「いじめ」問題で5人の母親が集まったのが始まりとか。
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「マザーランド・アカデミー・インターナショナル」の公式ページです。
(別ウィンドウで開きます)

又関連ページは マザーランド・アカデミー・インターナショナル で検索出来ます。


険悪な事件やキナ臭いニュースが流れている昨今ですが、こんな活動を続けている母たちがいる。
サハラ越えとマリ共和国を通して関われた「マザーランド」(母なる大地)です。