NO,17 帰心矢の如し
1984年1月5日(木)〜12日(木)
 地図とルートはここをクリックしてください(復路の地図更新しました)
『パリ・ダカール レース』

サハラ紀行の帰路最後の1週間も、出会いや事件、トラブルの連続だった。
タマンラセットを後にして、2年前は舗装道路を当たり前に気持ち良く走っていたのが幻のようだ。
立派だった舗装道路は見る影もなくズタズタに、、、、。
この道はスムーズに走れると思ってただけにかなり疲れる。
あっちこっちへターンの連続、昇ったり降りたり、ガッタン、ゴットン、ゆるゆると進む。

向こうから猛スピードのバイクが2台!
あれ?荷物積んでない、、、。
ゼッケン付けてた!
そのうちハデな車も、そして大型トラックまで猛スピードでやって来た。
これはもしかして、かの有名なパリ・ダカールレースでは?
略して「パリ、ダカ」!
これでもか、というくらい砂煙巻きあげて20数台の各種車とすれ違う。
イタリアの車が燃料切れで立ち往生。
それを見物していると、ドイツナンバー車が止まって「なんか、食い物ないか?」
ブル君はドイツナンバー車なので友人に出会った感じだったのか?パンを差し上げた。
20日間のパリ・ダカールレースだそうな。
サイドカーバイクも止まって「タイヤポンプないか?」
こっちのもすでに壊れている、、、、。
レースといっても長丁場なのでけっこうノンビリ?
めったにお目にかかれるもんじゃあないので、時々止まっては見物。
全くよくやる!物好きだな〜!
・・・・ハテ、私たちもそうとうに、いや、もっと、物好きかも。

その夜はかなりの強風、砂嵐を避けられる所へ避難した。
遅くまで道路にはレース車の走る音が響いていた。
日に1〜数台すれ違っていた道路とは思えない。
『大きく変貌した砂漠の町』

帰路の大きな目的に、Ain Salah(インサラ)の「オヤビン」再訪がある。
2年前に「サンタ」(フォルクスワーゲン・バン)の修理でとてもお世話になり、気の合った彼にもう一度会いたい。
そして、お土産の「工具一式」を手渡したい。
揃ってない工具を工夫して修理してくれたのだった。
(NO,2,NO,3参照)
インサラまでの道も鉄砲水で?破壊され、リタイヤしたレース車が何台も止まっていた。
救助のヘリコプターが降り立った。
この行程も、砂脱出鉄板のお世話になったり、岩場だったり、砂巻き上がるパウダーサンドや凸凹大地と変化に富んでいた。
もくもくと、ひたすら進む。
やっと辿り着いたインサラの町はとてつもなく大きくなっていて、雰囲気が全く違う。
2年前に泊まったナツメヤシの林を探し出し「オヤビンとの再会」を夢見つつ、明日を待つ。
巨大化した町には「車修理屋」が何軒も増え、写真と名前で「オヤビン」を訊ね回ったが
見つからない、、、、。
他の町に引っ越したのか?
「オヤビンとの再会」はかなわぬ夢となった、残念、、、、。


だが、あの「ゴールデンサハラ」は変わらず目前に広がっている。
道も穴ボコを避ければOKだ、レースリタイア組が追い抜いて行く。

私たちは「ゴールデンサハラ」で最後のサハラを満喫しようと道から外れ砂丘へ向かった。
『パンクとライトの故障と、、、、』

夕陽の砂丘を撮影したりキャンピングの用意をしたり、これからは道も良いようだし今夜はお祝い気分だ。
と、見ると、右後ろのタイヤがペチャンコ。
これはスペアタイヤなのだ、もう代わりのタイヤはない。
オアシスの町でこのサイズのタイヤは手に入らない、タイヤパンドーで何とか膨らませ次の町、El Goleaへ向かうことにする。
時間は17時30分。
ペチャンコタイヤでゆっくり、ゆっくり、10kmおきに止まってはタイヤ温度を確かめる。バーストしたら最後だ。

日暮れてライトを付けるとスイッチがいかれてる。
砂を噛んでいるらしく動かない。
非常点滅灯をチカチカやりながらこれも一灯しか付かないフォグランプの明かり頼りに
安全な路面選んで、エルゴレアのガソリンスタンド着。
コンプレッサーで4、5kgのエアーを入れ翌朝再点検。OKだ!
あの悪路でチューブレスタイヤがねじれエア抜けしたものと判断。

ライトはスイッチを取りコードから直接コンタクト出来るようにした。
コーチャン電気技師、ウデの見せ所!
その後ワイパーも動かないことが判明。
サハラでは夜間走行も雨天走行も皆無だったと、あらためて実感。
10kmおきのタイヤ点検、異常なし。

Galdaia(ガルダイア)を過ぎ、行き交う車が増え対向車との挨拶もなくなった。
『フェリー便とケニヤ行きチケット!!』


Togourtのホテル・オアシスで久しぶりに荷物入れを開け、フェリーのタイムテーブルを調べてみた。
手持ちのチケット、チュニス発は18日しかない。
<19日マルセイユ着・20日は土曜日、ケニヤ出発は21日〜23日(変更不可)・ケニヤのヴィザ申請もしなくては!>
サハラボケで忘れてしまっていた、、、、。
アルジェ発・マルセイユ行きはあさっての便がある。
手持ちチケットをキャンセルか?有り金調べてみると2等だったらなんとか乗れるかも、、、。
「2等の壮絶な喧噪、1等の目を見張る豪華さ、、、、」
今はソンナこと言ってられない、首都アルジェであさって発のマルセイユ行きフェリー切符が手に入るか?が問題。

走りに走り、とばしに飛ばして650km。
砂漠から枯れ草、低潅木、アカシア、ユーカリと植生が変わりアトランタ山脈へさしかかる。
山頂にはうっすらと雪が見える。
そして雨、、、、。
働き方を忘れてしまったワイパーのスイッチもライト同様にコードと直結。
夜、首都アルジェ着。人々々、車々々、家々々、大都会。
強風と大雨の中、港に止まっていた運送屋のトラックの間に紛れ込んで泊まった。
ここまで来れば、ブル君に何があろうと置き去りにしなくてもいいだろう。

早朝、運送屋のトラックが動き出したのでフェリー乗り場へ移動。
SNCM(船会社のオフィス)を探し、チンプンカンプン、さんざん訊ね回り街の中心にあることが判明。
坂道と一方通行の街中をグルグル駆け回って、やっと見つけた。
まず深呼吸をして「ボンジュール、マダム」
こわごわと「このチケット(チュニス→マルセイユ)をアルジェ発に変更できないか?」「いつの便?」「明日」
チラチラと予約表を見ながらチケットに何やら書き込んでいる。
「OK,明朝9時、港へどうぞ」
二人とも声も出せずに、大ヨロコビ「ヤッ、ヤッ、ヤッター」

アルジェリアの強制換金の残り4万5千円也で無理矢理お土産品を買い駐車場へ。
イタリアナンバーの4WDキャンピングカーが隣に来たので、フェリーの情報を教えてあげた。
その会話中、アルジェリアとチュニジアの国境が1週間前から閉鎖されているとのこと。
ああ、私たちはなんてラッキー!
だが、まだ安心はできない、ここはアフリカ。
イタリア人夫婦からスパゲテイ夕食に招かれ、サハラの撮影ポイントを色々教えてもらう。
今までの地獄のような苦労は忘れられないけど、もう一度、再訪したい気分になってくる。

『幸運の女神』

港には我らがフェリー「Napoleon(ナポレオン)」がで〜んと着港していた。
出国、乗船手続き終了。車にキーをつけたままパスポートだけ持ってアッチへ行くように、と。
人々に見習ってポリス、カスタムチェック。
2時間ほど待たされて1等キャビンの船客となる、東向きの窓があり最高!
レストランのテーブル予約ではGAO(ガオ)で出会ったフランス人、ランクル2台組と同席に。
色々あったけど、まずはカンパイだ。

出港してから船底のガレージでブル君に再会、荷物をキャビンに持ち込む。
今までのホテルと違い食料、鍋などはナシ。洗濯物のみ。
イタリア人夫婦は2等なのでカメラバッグを預かってあげた。

フルコースの昼食、思うぞんぶんのホットシャワー。
フルコースの夕食、ベッドから地平線のような水平線を眺めつつ眠る。
モーニングコールで目覚め、レストランで朝食。
1500人乗りの大客船に70人くらいの乗客でガラガラ空きだ。
「パリ・ダカ」レースのリタイア組や2等船客も加わりバーでハナシが弾んだ。
ギリシャやケニヤ、南仏のこと、そしてもちろんサハラ体験。
全員に言われた。
「ブル君のような4WDではないノーマルカーでよく無事にサハラを越えたもんだ!」
「大きなトラブルはもちろん、小さなトラブルでも荷物や車を捨てて来た人たちがいるのに」
「あなた達は本当にラッキーだった」
私たちもそうは思っていたけど、ここでますます実感。
もう一度フルコースの昼食後、定時にマルセイユ着。
スムーズな入国手続き後、記念写真など撮ってサハラ組とお別れし、郊外の大スーパーへ。
あまりの物の多さに、ブルーガスの交換だけして買い物はやめた。
とっても安心な道路を時速110kmで北上。
来るときに味をしめた高速道路内のモーテルへ。
なんと、同じ場所、同じ部屋。
フリダシへ戻った感じ。
サハラ越えの旅はなんだったのか・・・・・。

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