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寿生の事・父:木下裕正の記録
2008年2月4日春分の日記
コーチャンの
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寿生の父、木下裕正氏は生まれも育ちも浄土真宗お寺。
さすがに父の立場以外で宗教人として受け止められるようで、コーチャンは4回忌を終えやっと再読することが出来た。
改めて裕正さんにお礼を申し上げたい
下記3部作になっています。
7日間の記録(平成17年2月25日
(四七日法要の日)(このページです)
2月2日故木下寿生(次男)告別式における
木下祐正(父)挨拶
静岡県下田警察署 刑事課への
お礼挨拶文
木下寿生:失踪(1/28)―死亡確認・葬儀―遺骨帰名(2/3):7日間の記録
                     平成17年2月25日(四七日法要の日) (1/12)
木下祐正

はじめに:
 ・本記録は通夜・葬儀に参列できなかった親戚の皆様および寿生の親友の方々、そしてずっと将来、寿生が目に入れても
  痛くなかった愛娘:ひなのが大きく成長した暁に、寿生の妻:明美よりひなのに対し、父:寿生の早過ぎた死について説明する際の
  参考資料にするために作成したものです。
 ・本記録作成者=木下祐正(寿生の父)は自分が知る限りの「事実」を、時系列に沿ってできるだけ克明に、
  決して事実を曲げたり隠したりしないよう心掛けて、淡々と綴ることに努めました。

この記録を読まれた方よりお叱りを受けそうな事実(例えば、寿生失踪の二日目:1月29日(土)楽観していた祐正は
  14時―16時いつものように名古屋ドーム球場隣の東区スポーツセンターで
  筋力トレーニングに汗を流していた事実(寿生が自殺を決行した時刻=15時は正にその真最中)も隠さずに記しました.

・祐正が綴った草稿の点検を弓子(寿生の母)、弓子の実弟:久我耕一&通世(寿生の叔父・叔母)、 通夜・葬儀の導師を
  務めてくれた実弟:木下宗信(寿生の叔父)および長男:光生(寿生の兄)に頼んで、祐正の記憶・理解の間違いを訂正して貰い、
  更に祐正は直接知らないが上記の記録作成の目的・趣旨に鑑みぜひ記録しておくべき事実を加筆して貰いました.
 ・従って、この記録はあくまでも祐正が直接関わった事実を主として綴ったものであり、決して

関係者全員が関わった事実を全て網羅した記録集ではないことを予めご理解の上、お読み戴きます
ようお願い致します.従って文責はすべて木下祐正にあります。

1月28日(金):

・ 寿生はいつものように朝、仕事に行く格好で自宅をでた。

・ 寿生の勤め先(知的障害者介護サービスNPO)より明美に「寿生が出社していない」との連絡あり。
 明美は両親(鈴木英機・和子)と共に「寿生は今夜までには帰宅か連絡をして来るだろう。
 捜索願は今日は出さずに寿生を待とう」と28日の一日中寿生の帰宅又は連絡を待った。
 しかし寿生は家に戻らず、連絡もして来なかった.
 寿生は携帯電話の電源を切っており、従って明美から寿生への連絡はできなかった。

1月29日(土):

・ 早朝6:15頃、明美より弓子へ「寿生が昨28日朝仕事に行く格好で家を出たまま昨日も今日も勤め先に出社していないし、
 自宅にも戻って来ない. 所持金は1万円ちょっとしか持っていない」との連絡あり、相談の結果、直ちに警察に
 捜索願を出すことにして、明美がその手続きを行った。
 その後、弓子はその旨を耕一に連絡した.

・ 耕一は最初から危機感を持ち、従って耕一の対処行動は迅速であった.
 1) 耕一は、たまたま自分の携帯電話をヨット「ひなの」に忘れていたこともあり、又寿生から携帯に連絡が入っている
   可能性も考えて、ヨット・釣りが好きな寿生のことなのでひょっとするとヨット「ひなの」に逃げ込んでいるのではないか?
   との微かな希望を持って、ヨットを繋留している千葉県富浦港に駆け付け、ヨット内を探したが、寿生は見つからなかった。
   寿生の携帯電話は切られていたが、携帯メールに書き込みを入れた.
 2) 耕一は寿生の勤め先の皆様と協力・手分けして、寿生が行くかも知れない海岸(三浦半島の久里浜、三崎等)を探したが、
   寿生は見つからなかった.
 3) 耕一は勤め先の皆様と手分けして思い付く限りの海岸沿いの地方の新聞地方版を買い集めて、行方不明者が報じられて
   いないか?記事をくまなく点検した.
 4) 耕一は「寿生という男は宝のようにしていた愛娘:ひなのと愛する妻:明美をおいてどこかに行ってしまう奴ではない。
   きっと暫らく一人になりたかったんだ。」と思うようにした。
 5) 耕一はヨット「ひなの」で一晩寿生を待ったが、寿生は現われず、連絡も付かなかった.

・ 一方、祐正・弓子は殆んど危機感を持たず、楽観していた。
 1)「あの能天気で豪胆で明るい寿生が本気で失踪などするはずがない。どこかで頭を冷やしている  だけだ。
   所持金がなくなる明朝までには頭かきかき帰って来るに違いない」と楽観していた.
   その証拠に祐正はいつものように14時―16時名古屋ドーム球場隣の東区スポーツセンターに行き、
   筋力トレーニングに汗を流した.
 2)祐正は実弟(寿生の叔父)の光徳寺住職:木下宗信に「胆嚢炎で入院している老母(寿生の祖母:直枝)の見舞には
  祐正・弓子共しばらく行けない。3月始め光生・有紀の子供誕生時の帰省の折に見舞に行く」旨連絡したが、
  上記1)の理由により、寿生失踪・捜索中の件は言わなかった。

1月30日(日):

・ 楽観していた祐正・弓子もさすがにだんだん心配になってきた。弓子は所用で三重山小屋に行き、祐正は名古屋自宅で
 じっと待った。午後には祐正の胸はドキドキ騒ぎ出して来た。名古屋自宅にいる時は必ず午後に通って励んでいる
 筋力トレーニングに行く気分には到底なれなかった。

・{通夜・葬儀の受付をして戴いた寿生の勤め先の二人の女性同僚:A子さん(息子さんが知的障害者で、
 寿生がバンバレーに連れて来たことがある)およびB子さん(寿生失踪の前日、寿生と仕事の打合せをしていた女性)
 から通世が下記情報を聴取した}
 
「下田警察署からの寿生自殺体発見の第一報は、寿生のリュックサック内にあった寿生の名刺を見て、
  先ず寿生の勤め先に来た模様である。下田警察署からの電話に先ずA子さんが出たが、悲報を聞いた途端動転して
  寿生の妻:明美の名前も電話番号も思い浮かばず、B子さんに助けを求めて電話した。
  B子さんはその時間自動車を運転していて、給油のため自宅近くのガソリンスタンドに立ち寄った時A子さんからの
  電話を受けた。B子さんはもし運転中に
  電話を受けていたらショックでどうなっていたか?身体が震えると言われていた由。

  B子さんがその時下田警察署にどのように対応されたか?の詳細は不明である.」

・ 耕一は明美から最近の寿生の様子についてもっと詳しい話を聞こうと思い、ヨット「ひなの」に寿生宛のメッセージを残して
 富浦港を発ち、妻:通世と合流して、横浜の明美両親宅を訪問した.
 家に入ると明美が下田警察署の方と電話で話していた.明美が正座して冷静に対応している姿を見て、通世は思わず
 「良かった! 寿生は無事で、下田警察署に保護されたんだ!」と言った。

 一方、耕一は「やっぱり・・・・・・・・・・」と感じた。 下田警察署の方との電話を終えた明美からの言葉は

 「今日16時頃下田公園の水族館の横の山の上で首を吊っている人を山菜取りの人が発見した.
 寿生の身分証明書・運転免許証および携帯電話が傍に置いてあった.寿生に100%間違いない」
 とのショッキングなものだった。

 最初のきっかけは明美があらためて寿生の携帯電話にかけてみたら突然電源が入り通じて相手方が出たので、
 明美はてっきり相手は寿生のつもりで話し掛けたところ、相手は下田警察署の方だったという次第。

・ 19時頃、明美より三重山小屋にいる弓子に上記の100%間違いなく寿生らしき自殺体発見の連絡あり、
  弓子は祐正・光生に直ちに連絡。弓子は注意して車を運転して20時頃名古屋自宅到着。

・ 耕一は明美に「必ず寿生を明美さんとひなのちゃんの元に連れて帰るから、二人は横浜両親の元で待っていて欲しい」
  と頼み、祐正・弓子・耕一・通世の四人で下田警察署を訪ね、寿生の遺体を確認・引取ることにした。
  光生は横浜駅近くのホテルに宿泊、待機することにした。

・祐正は実弟木下宗信(寿生の叔父)及び従弟の西楽寺住職:菊池恵規に上記状況・予定を連絡した.

・ 祐正・弓子は急いで準備をして名古屋駅に駆け付けたが、タッチの差で熱海停車最終のひかりに乗りそこね、
 しばらく待って三島行き最終こだまに乗る外なく、耕一にその旨を連絡して下田に向かう耕一・通世の自動車に祐正・弓子を
 三島駅でピックアップしてもらうことにした。

・ 祐正・弓子は21:45頃名古屋発のこだまに乗り、23:45頃三島駅に到着、耕一・通世にピックアップしてもらって、
 天城越えの曲がりくねった山道を一路下田に疾走した.

1月31日(月):
・ 未明2時過ぎやっと下田警察署に到着した. 寿生の勤め先の知的障害者介護サービスNPOの理事長:明石さんと
  寿生の上司:加藤さんが遠路川崎より電車で駆け付けて待っておられた。

・ 担当の小池刑事が前夜発生した別の凶悪事件の捜査に出掛けられていたため、代わりの警官より下記の説明を受けた;

 1) 寿生らしき人物が30日(日)16時頃下田公園岬高台の松の木にロープで首をくくり死亡しているのが発見された.
   傍に寿生の身分証明書・運転免許証入りの財布、携帯電話、およびリュックサックが置かれていた.
 
 2) 下田警察署前の西川クリニック院長の西川公詞医師が遺体を検分した.首にロープ締め跡がある以外は、
   頭蓋骨等に陥没はなく、身体のどこにも打撲傷・刺し傷の跡はないので、これは事件(殺人、偽装殺人等)ではなく
   自殺と断定された.

・死因=ロープによる縊死

・推定死亡時刻=1月29日(土)15時(遺体発見時刻の25時間前と推定された)

(今日昼過ぎに「死体検案書」を西川クリニックにて受領のこと)

・ 同警察署裏の霊安所に案内され、遺体が寿生かどうかの確認を求められた.顔の白布がとられるとそれは間違いなく
 変わり果てた姿の寿生だった.発見が早かったため身体は全く損なわれておらず、「おい寿生!起きろ!」と言えばすぐ起きて
 来そうな安らかに眠っているような顔をしていた。

 遺体の傍に寿生の身分証明書、運転免許証、財布、携帯電話、1月28日付新聞、1月分給与明細書、明美が作った2食分の
 殆んど手をつけていない弁当、リュックサックおよびロープ(道路工事用等の黄黒縞模様の使い古されたロープ)が置かれていた。

耕一は昨夜横浜を出る時、明美から預かった明美とひなのが写った写真1葉を寿生の顔の横に置いてあげた.

弓子は「寿生!どうして?どうして?」と泣き崩れて寿生にとりすがり、通世は号泣していた.

祐正と耕一は未だ現実感がなく、涙の一滴も流さずに(涙が出て来ない)立ち尽くしていた。
 祐正が式章をつけて御文章「白骨の章」を読経し、祐正・弓子・耕一・通世・明石さん・加藤さんの順に焼香し、
 南無阿弥陀仏と念仏を申して、寿生との悲しい対面を閉じた.

・ 霊安所を出て控え室に入ると直ちに明美および光生に遺体は寿生であった旨連絡した.

・ 3時頃下田警察署を出て、近くの粗末なホテルに6人投宿した
 早朝明石さんはホテルから川崎に戻られ、加藤さんも寿生自殺現場を訪ねた後川崎に戻られた.

弓子は明美およびその両親との通夜・葬儀の打ち合わせ・準備のため、始発電車で下田を立ち、横浜駅で光生と合流して、
 横浜の明美両親宅へ向かった.

・ 8時10分頃祐正・耕一・通世の3人で下田警察署を訪問、15分程待ったところで担当刑事に面会した。
 (下田警察署、刑事課、刑事第一係主任、静岡県巡査部長、(耕一氏名削除)K氏)

K刑事は光生と同じ31歳、熊本県出身(九州学院高卒)、機動隊勤務もある、長身細身の引き締まった体格のハンサムな
 好青年で、暖かい、心のこもった、思いやりのある言葉と態度で接して戴き、悲しみに打ちひしがれた3人にとっては正に
 干天に慈雨の感じだった.

(K刑事は前述のように前夜発生した凶悪事件の捜査も担当しているため、殆んど睡眠を取る 時間はなかったはず。
 ------------警察の最前線刑事とは大変な仕事だなと実感した。)

・ 8:30−9:15 K刑事より下記の事情聴取を受け、祐正・耕一より説明・回答した.
    
(1)関係家族の構成・系図とお互いの関係を祐正が紙に書き、説明するよう求められた。
         木下家: 祐正・弓子、光生・有紀、寿生・明美・ひなの
         久我家: 耕一・通世
         鈴木家: 英機・和子
(2)「寿生はどのような男であったのか?、どのような性格だったのか?」および
        「自殺決行の原因・誘因・要素に思い当たることはないか?」との質問に対し、
        祐正・耕一よりいろいろな具体例・エピソードをあげて説明・回答した。
         
         祐正(父)-------強い寿生(何事にも怖れを知らぬ豪胆な男、どんな悪環境でも生き抜けるゴキブリのように
                    逞しい奴)

         耕一(叔父)----弱い寿生(非常に繊細で、感受性が強く、まじめで、気が弱いという上記とは別の性格と
                   自殺の原因・誘因・要素の推察)
小池刑事への説明・回答の詳細については下記資料を参照のこと:
      a) 2月2日故木下寿生(次男)葬儀における木下祐正(父)挨拶
      b) 2月9日付木下祐正より小池刑事への礼状
     
(3)小池刑事に、寿生の自殺を発見・通報してくれた山菜取りの方にお礼をしたいので名前・住所・電話番号を教えて欲しい
   とお願いしたら、プライバシーに関わることなので教えられないと断わられた.

・ 9:15上記事情聴取が終わり休憩した後、小池刑事に警察乗用車に3人乗せて戴き、寿生の自殺現場に案内して頂いた.
 自殺現場は伊豆半島の南端:下田市の下田公園岬の高台だった。

 下田公園の水族館の側の駐車場を降りると高さ60−70m位の高台があり、坂道を上って頂上に出ると、眼下には急な
 下り勾配の坂の先に小さな湾があり、その中の数個の小島の周りの磯に白波がくだけていた。寿生は高台の頂上から10m位
 下った急な下り勾配途中にある見通しの良い松林の中の1本の松の木の枝にロープをかけて首を吊っていた由である.

耕一・通世によるとこの湾は寿生が以前にヨット「ひなの」で何回も訪れたことのある場所で、スキューバダイビングの免許を持つ
 寿生はここでダイビングを大変に楽しんだとのことである。

寿生自殺現場の松林の少し先にはなかなか発見されそうにない海へ向かって急な下り勾配の鬱蒼とした森があり、
 その下には切り立った岩が連なる磯があった。寿生はそのような見つけられにくい場所でなく早く自分を見つけて!
 との願いを込めてか見通しの良い場所を選び、身分証明書・運転免許証・携帯電話等の証拠品を側に並べて自殺を決行したもの
 と思われる.寿生は最後の最後まで人への思い遣りがあり、人に迷惑を掛けないよう気遣う男だったんだとの感慨にふけった。

今朝3人より先にこの現場を訪ねられた寿生の勤め先の上司:加藤さんが置かれていた花束の横に、警察署を出て途中の花屋で
 購入した花束をたむけ、合掌・黙祷した。

寿生は一体どのような頭で何を考え、どのような顔をして、伊豆急行電車の窓から食い入るような目でかつてヨット「ひなの」で航海し
た海を左手に眺め、下田駅に降り、何を考えつつどのような足取りでこの山道を歩いたのだろうか? 

途中で愛する妻:明美のあの字も、目に入れても痛くなかった愛娘:ひなののひの字も思い出せなかったのだろうか?
 あの朗らかだった寿生とは全く別の頭と心を持った別人の寿生が歩いていたとしか思いようがない

----------------嗚呼、合掌。

・ (1)弓子は横浜駅で光生と合流し、横浜の鈴木家を訪問、明美・両親と面会した.
     今日密葬・後日お別れ会方式ではなく、普通のちゃんとした浄土真宗本願寺派の通夜・
     葬儀方式で行うことにして、今夜通夜・明2月1日葬儀の予定で諸連絡・調整・準備
     を進めることにした。
 (2)祐正は早朝6時に宗信に電話し「未明に寿生の自殺を確認した。午後遅く遺体を横浜に搬入、
     今夜通夜・明2月1日葬儀の予定、急なお願いで誠に申し訳ないが導師を務めて欲しい」と懇請した.
     宗信は門徒法事等数件の先約があったにも拘らず快く受諾してくれた。
     但しどうしてもキャンセルできない午前中の法事一つを済ませてからの午後福岡出発なので通夜開始時間を
     出来るだけ遅くする(できれば20時開始)条件付き受諾だった。
 (3)弓子は鈴木家と共に担当葬儀社を選定(菊名葬儀社を選定)、直ちに同社社長に相談した処、横浜地域の通夜は
     18時開始が常識であり、又火葬場も明1日は予約満杯であり、寿生の火葬は2日が最早日であることが判明したので、
     下記日程・場所に変更・決定した.   

葬儀社    :菊名葬儀社(社長:黒澤一雄氏、TEL:000-000-0000)
          通夜・葬儀場 :西寺尾会堂(横浜市神奈川区松見町418、TEL:000-000-0000)
火葬場    :西寺尾会堂に隣接(上記会堂と同じ経営者による民間経営の火葬場)
         (通夜・葬儀場、火葬場とも鈴木家のすぐ近くにある施設)

        通夜     :2月1日(火)18:00−19:00
        葬儀     :2月2日(水)11:00−12:00
        出棺・火葬  :2月2日(水)12:30−13:45
        初七日法要  :2月2日(水)14:15−14:45

 (4)祐正は宗信に直ちに上記の日程変更を連絡しあらためて導師をお願いした処、宗信は快く受諾してくれた。
 
 (5)手分けして関係者に寿生死亡の事実および通夜・葬儀の日程・場所を連絡した.

・ 13時、祐正は下田警察署の道路を挟んで真向かいの西川クリニックで寿生の「死体検案書」を受領し、寿生の遺体を載せた
  地元下田の葬儀社(セレモニー高橋、000-00-0000)の高橋専務が運転する乗用車に同乗して下田を出発した. 
  耕一・通世は自家用車で追走した.

・ 祐正は、寿生が最後の思い出として伊豆急行電車の窓から食い入るように眺めたに違いない、かつてヨット「ひなの」で航海した
  伊豆半島東側の海を右に眺めつつ横浜へ向かい1時間位走ったところで、はたと次のことに思い至った。 

-------明後日の葬儀では明美の喪主挨拶の前に、祐正は遺族代表としての型どおりの挨拶と言うよりも、寿生の父親として
   「父母の見た寿生の人となり」を参列の皆様に具体的に分り易くご紹介・説明する必要がある。
   そうしなければならない理由は次のとおりである。

⇒⇒⇒祐正が今までずっと思い信じ切って来た「強い寿生」(何事にも怖れを知らない豪胆な男、どんな悪環境でも生き抜く
   ゴキブリのように逞しい奴)について、実際の具体例・エピソードを紹介しつつきっちり説明しないと、寿生は“ただ人に親切で、
   人に好かれて、繊細で、感受性が強くて、まじめで、気が弱くて、自殺してしまった”ただ「弱い寿生」と皆様に誤解されてしまう
   恐れがあり、それは寿生にとって余りにも不公平で可愛そうであり、親にとっても不憫であり、遺憾である。
-----しかし「豪胆」と「繊細」の二つの性格が同居していた愛すべき男:寿生の人となりをどのように説明したらよいのか?

⇒⇒そう言えば、つい先程小池刑事に説明・回答したばかりの“強い寿生”と“弱い寿生”の内容をそのまま紹介・説明すれば
   いいじゃないか。 

-------こういうことで下田から横浜への数時間のドライブの間に、今朝小池刑事に説明・回答したばかりの
     “強い寿生”と“弱い寿生”の両面を述べた「父母が見た寿生の人となり」の内容骨子をメモにまとめた。

・ 17時半頃寿生の遺体は通夜・葬儀場=西寺尾会堂に到着、明美・ひなの、明美の両親(鈴木英機・和子)、光生・有紀等が
 変わり果てた寿生と対面した. 悲しみに打ちひしがれながらも気丈に振る舞う妻:明美、および何も知らずに祖母:鈴木和子に
 甘えまとわりついている愛娘:ひなのの姿を見ると、胸が張り裂けそうな気持ちになった.

・ 葬儀社の人達と遺体の安置、通夜・葬儀の要領・準備について打合せを行った後、明美・ひなのおよび鈴木ご両親は近くの
 自宅に戻り、耕一・通世は明美に頼まれた会葬御礼カードを急いでデザインしプリントアウト(300枚)するため、
 国分寺市の自宅に戻った。

祐正・弓子・光生・有紀は新横浜駅近くの新横浜グレースホテルに引き上げた。
 ホテルで寿生の無二の親友(高校の同級):前田君と加藤嬢に会い、ここ半年―1年の寿生の状況・様子を聴いた.
 前田君には明後日の葬儀における弔辞をあらためてお願いした.

・ 祐正は風呂に入り湯船につかって、長かった激動の31日がやっと終ったことを実感した。
 しかし、気を紛らそうと新聞を読んだり、テレビを観たりするものの、すべて上の空の感じで、頭に入らず面白く感じなかった.
 寿生死亡の現実感が未だに希薄な祐正には昨夜来今まで一滴の涙も出て来ないが、夜も更けて電気スタンドを消し目をつぶると
 在りし日の元気な寿生が何回も現われて来たように思われ、朝まで殆んど眠れなかった.隣の弓子も殆んど眠れなかった由。

2月1日(火):
・ 祐正、弓子共ほとんど眠れないまま夜を過ごし、朝を迎えてしまった.

・ 8時半頃、祐正・弓子、耕一・通世、光生・有紀は通夜会場の西寺尾会堂に到着。程なく明美がひなのを保育園に預けた後、
  ご両親と会堂に到着した。

 早速葬儀社の人々と下記のような諸々の事項の打合せを行った。
1) 寿生の遺影(大小二つ):パスポート写真の拡大版を使用。

2) 供花:アレンジの仕方(花の贈呈者の姓名はボードに一括して並べて掲示し、贈呈された
  花は一括して寿生の棺の両側に飾る-------このアイデアは本当に良かった)、供花贈呈者リストの作成等

3) 1階式場に置く椅子の数と置き方、椅子に座れない参列者の場所の設定(1階玄関付近の立ち席および
  2階部屋の座席(テレビで1階通夜を観る))

4) 弔辞拝読の要領(寿生の勤め先の上司:千葉さんおよび寿生の無二の親友:前田君)

5) 弔電拝読の要領(順不同)

6) 祐正の挨拶の要領(「父母の見た寿生の人となり」の紹介)

7) 明美の喪主挨拶の要領

8) 通夜の料理・飲物・宿泊ふとんおよび宿泊者数の見積り等々

9) 会葬御礼のカード配布------耕一・通世は、明美に依頼されて、昨夜、会葬御礼のカードをデザインし、
  300枚プリントアウトした
  (御礼者名は本来は喪主:明美とするのが常識であるが、あえて木下寿生・明美・ひなのの
  一家3名の連名とした.これは明美からのお願いでもあり、又寿生から皆様へのラスト・メッセージとしたかったためである)。

・ 祐正は上記作業が一段落した午後、明日の葬儀で参列者に紹介する「父母の見た寿生の人となり」の口上草稿を作成し、
 明美の意見を求めた. 明美の意見・希望を反映して口上草稿を修正した.

・ 15時半、通夜・葬儀の導師を務めてくれる木下宗信が会堂に到着した. 早速葬儀社と通夜および葬儀の要領を打ち合わせ、
 宗信が下記のように二つの位牌に揮毫した.

大型の位牌:表に「南無阿弥陀佛」を揮毫(この地域ではご本尊を用意するのは葬儀社ではなく、導師がお伴することになっている
 由。
一方、福岡では葬儀社がご本尊を用意することになっているので、宗信はご本尊のお伴をして来ていない。

⇒⇒大型の位牌の表に「南無阿弥陀佛」を揮毫して、ご本尊とした)
裏に「無量院釈寿生、平成17年1月29日、俗名木下寿生、行年28才」と揮毫。
   小型の位牌:表に法名「無量院釈寿生(じゅしょう)」を揮毫、裏に「平成17年1月29日、
   俗名木下寿生(ひさお)、行年28才」と揮毫。

(注:「寿生(ひさお)」という名は祐正・宗信等の父(光徳寺先代住職)=寿生の祖父:丈舟が浄土真宗の教えの大綱を要約した
大切な経文である「正信掲」の冒頭の文言より名付けたもの)

・ 鈴木家及び木下家の親戚が続々と会堂に到着、折から福岡から東京へ出張中の今村健二氏(有紀の叔父)も駆け付けて戴いた。
 祐正・弓子は初めてお会いした鈴木家の親戚の方々にご挨拶した.

・ 18時―19時、宗信が導師を務めて通夜を執り行った。

 1) 佛壇の中央に南無阿弥陀佛と書かれた大型の位牌(ご本尊)、棺および遺影が置かれていた。
   その周りは沢山のきれいな花で飾られ囲まれていた.棺の横には子供の時から釣りキチだった寿生及び家族全員の
   愛読書「小学館昭和32年発行“魚の図鑑”」、アウトドア派愛読雑誌「Be-Pal」,「鳥の本」、「東京中日スポーツ」
   (熱烈な中日ドラゴンズファンだった)および「ひなのの保育園日誌」が置かれていた。
   仏壇の前に導師席、その両側に20席ずつの椅子が置かれ、仏壇に向かって右側に鈴木・木下両家の遺族が着席し、
   左側には弔辞を述べられる寿生の勤め先上司:千葉さん及び無二の親友:前田君を始め、寿生が特に親しくお付き合い
   させて戴いていた方々が着席された。座れなかった参列者の方々は会場の後方(1階会場の玄関付近)の立ち席および
   2階部屋の座席(テレビで1階の通夜状況を観る)で参列戴いた.

 2)祐正は自分の焼香の時も、その後通夜が進んで行っても一滴の涙も出て来なかった。しかし、
   焼香の最後の頃に寿生がお世話をしていた大勢の知的障害者の方々が不自由な身体を押して参列して戴き、
   両側から付き添いの方に支えられてたどたどしい声で「寿生先生、有難う!」等と呼びつつ焼香されるのを見て、
   堰を切ったようにどっと涙が溢れて来た. 寿生はなんと素晴らしい仕事をしていたのか、
   このような人々にこんなに慕われていたのか、と感涙にむせんだ。

・ 通夜のお勤めが終わり、参列して頂いた方々と寿生の思い出を語りながら酒を飲み、食事をした。
  しばらくして明美・ひなの及び鈴木家の方々(明美の父:英機氏を除き)は自宅・ホテルに引き上げられ、九州から長旅して
  来た木下家の親戚(宗信・暢子・美幸・喜和子)は新横浜グレースホテルに宿泊した.

・ 英機氏、祐正・弓子、耕一・通世、光生・有紀は全国から駆け付けて頂いた寿生の東邦高校同級生の方々10数人と
 在りし日の寿生を肴に酒を酌み交わした。飲むほどに盛り上がり、話がはずんだ。あらためて寿生がいかに人に好かれ、
 人気者であったかを痛感した.
 
 午前2時頃、同級生ご一行が外に飲みに出られた後、英機・祐正・弓子・耕一・通世・光生・有紀は上記飲み会の後を片付けて
 貸しふとんを敷いて、雑魚寝の通夜を過ごした. 祐正は酒が相当まわっているにも拘わらずなかなか寝付けなかったが、
 3時過ぎには眠りに落ちた.

2月2日(水):
・ 祐正はビール・酒に助けられて3時間ほど何とか眠ることができて、6時半頃起床した.
 トイレ化粧室では温水が出ないので、1階事務所内の炊事場の温水でひげを剃った.

・ 皆でふとんを片付けて膳を並べて、バナナ・桜餅・握り飯等の朝食をとった。

・ 祐正は、膳の上で、「父母が見た寿生の人となり」の口上草稿を最終点検した.

・ 8時半頃、明美・ひなの、鈴木和子・鈴木家親戚の方々および九州から長旅をしてホテルに
宿泊していた木下家親戚(宗信・暢子・美幸・喜和子)が続々と到着した.

・ 9時半頃から参列の方々が続々と到着され、祐正はできるだけ多くの方々に参列のお礼を申し
上げるように努めた.

・ 11時―12時半、宗信が導師を務めて葬儀を執り行った.
 1) 前夜の通夜と同様、祐正は焼香し、葬儀が進んで行っても1滴の涙も出て来なかった。
  しかし前夜の通夜に参列戴いた知的障害者の方々とは別の知的障害者の方々十数人が付き添いの方に両側を支えられて
  焼香された時には、前夜と同様涙が溢れ出ししばらく止らなかった.
 2) 寿生の勤め先の上司:千葉さん及び無二の親友:前田君が切々たる弔辞を述べられた.前田君の弔辞の冒頭部分を
  下記に記す;

「寿生へ。どうして何も言ってくれなかったんだ。今まで互いに悩みがあったら何でも話し合ってきた仲じゃないか。
親に言えないことでも「友達」だからこそ、「親友」だからこそ、 相談して来たじゃないか。俺はお前にどれだけ助けて貰ったか、
どれだけ支えて貰ったか 数え切れないよ。俺は照れくさくてお前に面と向かっては言えなかったけど、今なら、今だからこそ
言えるよ。
心から「有難う!」って。寿生、どうか安らかに眠ってくれ。」

 3) いろいろな方からの弔電が読み上げられた.
 
 4) 読経の最後部で導師:宗信が御文章の一つ「白骨の章」を読経すると、祐正は小学生の時から親しんで来たこの
   「白骨の章」の文言の一つ一つの意味が今や現実感を持って胸にずしんずしんと響いて来た.

(「白骨の章」の全文を本記録の最終頁に記載している)

 5) 明美・ひなの、両家の父母・親戚および寿生と特に親しいお付き合いのあった方々が、仏壇の周りに飾られていた沢山の
   美しい花々を夫々手に取って棺に入れ、寿生に最後の別れを告げられた。
   寿生は沢山の花々に囲まれて、安らかに眠っているような顔をしていた。
   皆様は何回も花を取って棺に入れて嗚咽しておられたが、祐正は泣いてはおれなかった。

--------祐正はこの直後に「父母の見た寿生の人となり」を皆様に紹介しご挨拶することになっており、自分が泣き崩れては
  ご挨拶がメロメロになる心配があったので、花は2−3輪をまとめて1回だけ棺に入れ、寿生の顔が見えない少し離れた場所に
  立っていた.
 6) 祐正が「父母の見た寿生の人となり」を努めてゆっくりした語調で参列の皆様にご紹介した.
   (葬儀の後、宗信・弓子等からほぼ口上草稿どおりにちゃんと喋れたと聞きほっとした)
   (口上詳細:資料「2月2日故木下寿生(次男)葬儀における木下祐正(父)挨拶」参照)
   (葬儀では「“父母”の見た寿生の人となり」として参列の皆様にご紹介したが、実際は“父母”の見たではなく、
   「”父(祐正)“の見た寿生の人となり」とご理解願いたい)
 7) 最後に、明美が喪主挨拶を行った. 堂々とした落ち着いた口調の挨拶と態度に感心した.

 8) 予定を30分超過して12時30分葬儀終了、出棺が行われ、隣の火葬場へ送られるのを参列の皆様が合掌して見送り戴いた.

・ 13時、宗信の読経の後、寿生は火葬窯の中に入り、14時半、白骨となって戻って来た。
 明美・ひなの、祐正・弓子、英機・和子、両家の親戚の方々、更には寿生の親友の方々が、遺骨を拾って大きい壷と小さい壷に
 入れられた. 
 祐正は白骨になった寿生を見て、感極まって号泣した。

・ 西寺尾会堂の2階の和室に仏壇が設けられ、大小二つの骨壷、位牌(ご本尊)および遺影が並べられ、導師:宗信が
 「佛説阿弥陀経」と「白骨の章」を読経して、初七日法要を執り行った。
 鈴木・木下両家親族のみならず、多数の寿生の友人・知人が参列された。

・ これで全ての行事が滞りなく無事に終ってほっとした。

・ 参列戴いた皆様が帰られ、宗信・暢子・美幸・喜和子・光生・有紀も会堂を発ち、帰途についた.

・ 明美・ひなの、英機・和子は小型の位牌・骨壷・遺影を持って帰宅の途についた.

・ 祐正・弓子は今夜は名古屋自宅に戻らず、大型の位牌(ご本尊)・骨壷・遺影と共に今は亡き寿生を偲んで、
 新横浜グレースホテルにもう1泊することにした。

 2月3日(木):
・ ホテルの部屋では白骨になった寿生が大きな骨壷に入ってベッドのすぐそばにおり、今にも話し掛けて来るように思え、
 寿生が小さい時からのいろいろな思い出が脳裏に去来して、朝まで殆んど眠れなかった. 朝風呂に入って頭と身体が少し
 すっきりした。

・ 正午過ぎに名古屋自宅に帰った. 位牌・骨壷・遺影を棚の上に置き、花を飾って、お参りした.
 できるだけ早く昨年秋光徳寺より譲って戴いた立派な仏壇が置いてある三重山小屋に位牌・骨壷・遺影を持って行き、
 花を飾って、「佛説阿弥陀経」と「白骨の章」を読経しようと思った.

・ 寿生がかつて住んでいた部屋にはまだ寿生のにおいが色濃く残り、寿生の私物が沢山置いてある.
 この部屋はパソコンを置いて祐正の勉強部屋となっており、本記録もこの部屋で原稿を書き、パソコンに打ち込んだ。
 この部屋で勉強する時はいつも寿生が側にいることになる.

終わりに:

・ このように横浜での2月1日(火)通夜および2日(水)葬儀は祐正の実弟=寿生の叔父である木下宗信(福岡県三池郡高田町の
 浄土真宗本願寺派光徳寺住職)が導師を務めてしめやかに滞りなく執り行うことができ、
 寿生は「無量院釈寿生」という法名の仏様となって、極楽浄土に旅立った。
 
 (釣りキチだった寿生は今頃は極楽浄土の海か、三途の川の向こう側の堤防からか、三途の川の中の蓮の葉に乗って、
  お棺に入れたやった愛用の釣竿で魚釣りをしているかも?)。

通夜および葬儀には寿生が親しく交流していた東邦高校同級生が全国から駆け付け、大勢の山小屋の仲間
 (叔父久我耕一が大勢の仲間と手作りした、八ヶ岳・甲斐駒ケ岳が見える山梨県白州町の「バンバレー」と名付けられた
 大きな山小屋。寿生は4歳で米国より帰国後、兄:光生と春・夏・冬休みをいつもここで過ごした)、
 大勢のヨットの仲間、および勤め先の知的障害者介護サービスNPOの上司・同僚の皆様、更には寿生がお世話をしていた
 30人以上もの知的障害者の方々も不自由な身体を押して参列戴き、(*)親戚を除く参列者の数は250人以上にも及んだ。
 祐正の会社関係者・友人・知人には一切本件を知らせなかったので祐正関係の参列者はゼロであり、
 従って(*)親戚を除いて寿生が直接交流していた方々だけで250人以上もの参列を得たことは寿生がいかに人に好かれ、
 愛されていたかを示しているものと思う。

(*)参列者数の推定根拠:
    (1)耕一・通世がデザインしプリントアウトした300枚の会葬御礼カード
       ((7/12)頁参照)が通夜・葬儀においてほぼ全数配布されたこと、及び
    (2)通夜・葬儀参列者が記帳された奉名帖より推定。

・ 弓子に依れば葬儀を取り仕切った菊名葬儀社の黒澤社長が下記のような感想を述べられていた由。

 1) まず、素晴らしい好天気に恵まれた(祐正註:寿生は生前典型的な“雨男”だった)。
   当日は、めったに雪が降らない種子島を含み日本列島全体に降雪があり、交通が大混乱したのに、この関東南西部・伊豆半島
   地域だけが降雪なく晴れ渡っていた。

 2)次に、自分はいろいろなお葬式を体験しているが、通夜・葬儀はもちろん、お骨拾いや初七日法要に至るまで、
   親族だけでなく、これだけ多くの友人・知人や職場の方が残っておられるのは初めての体験でした。
   本当に良いお葬式でした。

・ 最後に、通夜および葬儀の最後に導師:木下宗信が読経した「白骨の章」の全文を下記に記す。

「白骨の章」は「御文章」の一つである。「御文章」とは浄土真宗本願寺第八代宗主:蓮如上人が 宗祖:親鸞聖人の教えを
 門信徒の誰にでも分り易くしたためられた御消息(お手紙)である。  

乱世において生命の危機におびえる人々に対し、ただ阿弥陀仏におまかせする一念の信心によって、老若男女を問わず
 在俗の生活のままで救われるという、浄土真宗の教えを平易に説き示して、誰でもが信心の喜びに生きるよう、
 心から念願されている。孫の園如上人が80通を選んで5帖にまとめられた。

祐正はこの80通の中でも特に「白骨の章」は極めて分り易く、格調高い、古今の名文の一つと思っている。
 祐正は門前の小僧習わぬ経を読むそのままで、文章の意味が全く解らない小学生の時から「白骨の章」に親しんでおり、
 亡くなった親戚および親友の墓前にお参りする時は「御文章」としては殆んどこの「白骨の章」を読経している。
 
 今後、毎日の寿生のお参りでは「佛説阿弥陀経」又は「正信掲」の後に御文章としてはこの「白骨の章」を読経するつもりである。

  「白骨の章」:
    「夫(それ)、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、おほよそはかなき
    ものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。
    されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)のうけたりという事をきかず、一生
    過ぎやすし。いまにいたってたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや、我やさき、
    人やさき、今日とも知らず明日とも知らず、おくれさきだつ人は、もとのしづくすえの露
    (つゆ)よりもしげしといえり。されば、朝(あした)には紅顔あって、夕(ゆうべ)には
    白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つのまなこたちまちに閉じ、
    ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)のよそおいを失いぬる
    ときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまって、なげきかなしめども、更にその甲斐ある
    べからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくって夜半の煙(よわのけむり)
    となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり、あわれというもなかなかおろかなり。されば、
    人間のはかなきことは、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、たれの人も、
    はやく後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)を心にかけて、阿弥陀佛とふかくたのみ
    まいらせて、念佛申すべきものなり、あなかしこ、あなかしこ。」         以上
7日間の記録(平成17年2月25日
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2月2日故木下寿生(次男)告別式における
木下祐正(父)挨拶
静岡県下田警察署 刑事課への
お礼挨拶文