さすがに父の立場以外で宗教人として受け止められるようで、コーチャンは4回忌を終えやっと再読することが出来た。 改めて裕正さんにお礼を申し上げたい 下記3部作になっています。
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2月2日故木下寿生(次男)告別式における木下祐正(父)挨拶 平成17年2月3日 木下祐正 (昨2日実際に口上したとおりの文言をできるだけ正確に思い出して再現記述したもの) ・寿生の父の木下祐正でございます。遺族代表ご挨拶と言うよりも「父母の見た寿生の人となり」 という感じでお話させて頂きます. ・本日はご多用中にも拘わらず寿生の沢山のご友人・知人・同僚の皆様にご参列頂き誠に有難うござい ました。かくも沢山の皆様に送って頂き寿生もさぞかし喜び、感謝していることと思います. ・さて「父母が見た寿生の人となり」をエピソードを混じえながらご紹介させて頂きます. (1)寿生は私が米国テキサス州サンアンジェロ市(人口7万人)の三菱重工の現地子会社で小型 民間航空機の販売に従事していました時、1977年9月20日現地の病院で生まれました。 寿生が生れる8日前に祖父(母弓子の父)が急逝、寿生は祖父の生れ変りとして誕生しました。 寿生の首がしっかり座った翌年春に母、兄光生(4歳)および寿生(0歳)の3人で祖父の 墓参りに帰国しました。母・兄は日本パスポートで帰国しましたが、寿生は米国パスポート で米国人として日本を訪問し、米国人として米国に帰国しました.寿生はサンアンジェロ市 および大都会ダラス市に合計4年3ヶ月住み、現地の保育園に通いました。 (2)寿生は名古屋の中学2年の夏休みに独りでロサンジェルスおよびマイアミを経由して中米 コスタリカへの往復旅行をしました。コスタリカに渡ってホテルおよび農場経営に成功した 日本人の方が息子に小学校教育だけは日本で受けさせたいと思い、名古屋に住む親戚に息子 を預けまして、寿生はこの息子と大の仲良しとなりました。そして中学2年になったらぜひ コスタリカに来なさいと招待され、寿生は私にぜひ行きたいとの強い希望を申し出て来ました. 英会話もろくにできない中学2年坊主が本当に独りで無事にコスタリカ往復旅行が出来るかな? と心配しましたが、寿生の熱意に根負けしてOKしました。寿生は母の弓子に空港での入出国、 乗換え、食事、トイレ、宿泊等に関わる簡単な会話(トイレはどこですか?等)の短い文言を 日本語と英語で併記したカードの分厚い束を作ってもらい、それを命綱としてコスタリカ往復 旅行を行いました.寿生は夏休みの終わりに「コスタリカ旅行は本当に楽しく、面白かった. 海外旅行なんて大したことはない.へっちゃらだ。」と言って意気揚揚と帰って来ました. (3)名古屋の高校卒業時に、運良くか?運悪くか?叔父の久我耕一がニュージーランドに設計製造 を発注していたヨットが完成し、寿生はその試験航海・領収航海のクルーに選ばれました. ニュージーランド周辺の太平洋における試験航海の合間に、寿生は独りでヒッチハイクして 日本列島と南北にほぼ同じ長さのニュージーランドの南の端から北の端まで各地をせっせと 訪ねた由です.「ひなの」と名付けられたこのヨットが太平洋の荒波を乗り越えて三崎のヨット ハーバーに凱旋帰国して来た時の寿生の真っ黒に日焼けした誇らしげな笑顔が目に浮かびます. (4)寿生はその後しばらくの間ダブダブのズボンをはいてとび職の仕事に励み、目がくらみ足が すくむ100mもの高さの風に揺れる工事現場での作業も全然怖くないと豪語していました. ・このようなことで父母は寿生は何事にも怖れを知らない豪胆な男で、どんな悪環境でも生き抜く ゴキブリのように逞しい奴とずっと思って来ました. ・しかしながら今回、5年前名古屋から川崎・横浜に移り、知的障害者介護サービスの仕事に従事し、結婚 した寿生と日々接していた妻の明美、しばしば親しく交流していた叔父叔母の久我耕一・通世 および先程弔辞を述べて戴きました勤め先の上司の方および前田君等の親友の方々の寿生評を聞きますと、 寿生は非常に繊細で、感受性が強く、まじめで、気が弱いという別の一面を持っていたことを知り、 父母の不明を恥じると共に寿生に心から謝りたい気持ちです. ・寿生はこの父母がよく知らなかった後者の性格が関係して、心の奥底にいろいろな問題がたむろし こんがらがって、それらとの葛藤の末に押しつぶされてしまったのではないか?と思っています。 ・寿生は大変人に優しく思いやりがあり、誰にも好かれる、底抜けに明るい、本当に愛すべき男でした. このため知的障害者介護サービスの仕事は寿生にぴったり合った天職だったのではないかと思います. ・寿生は学校の成績は全くふるいませんでしたが、小学生の時から実に素晴らしい文章を書く文才に 恵まれていました。寿生が書いた作文・手紙・日記を読むのは父母にとって大きな楽しみでした. ・以上「父母の見た寿生の人となり」をいろいろ紹介させて頂きましたが、寿生は愛する妻の明美と 1歳9ヶ月の愛娘:ひなの(寿生が愛して止まなかったヨット「ひなの」から取った名です)を 残して、足早に風の如くこの世を去ってしまいました. ・皆様におかれましては、「豪胆」と「繊細」が同居していた愛すべき男:今は亡き寿生の記憶を 心の片隅に残しておいて頂くと共に、残されました明美とひなのに対しましては寿生生前と 変わりないご厚誼・ご厚情を賜りますようお願い申し上げます. ・本日のご会葬並びにお見送り誠に有難うございました. 以上 |