さすがに父の立場以外で宗教人として受け止められるようで、コーチャンは4回忌を終えやっと再読することが出来た。 改めて裕正さんにお礼を申し上げたい 下記3部作になっています。
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(耕一にて住所等削除) 静岡県下田警察署 刑事課 刑事第一係主任(TEL:0000000) 静岡県巡査部長 K氏殿 平成17年2月9日 木下祐正 前略、先日は愚息木下寿生(27歳)の下田公園岬高台における自殺により貴殿を始め貴署の方々に大変なご面倒をお掛けして誠に申し訳ありませんでした.心から深くお詫び申し上げます. 寿生が1月28日(金)朝横浜自宅を出て失踪後2日半近く経った1月30日(日)夕方悲報を 受けて貴地に駆け付け、31日(月)未明貴署霊安所にて変わり果てた寿生に接して悲しみに打ち ひしがれた両親(下名・家内弓子)および叔父叔母(久我耕一・通世)に取りまして、貴殿を始め 貴署の方々より戴きました暖かい、心のこもった、思いやりのあるお言葉・ご対応はまさに干天の 慈雨のように有難いものでした。更に貴殿には連日のご多忙と大変なお疲れにも拘わらず 31日(月)朝、下名および久我耕一・通世を自殺現場までご案内戴き誠に有難うございました. あらためて心から厚くお礼申し上げます. 横浜での2月1日(火)通夜および2日(水)告別式は下名の実弟=寿生の叔父であります木下 宗信(福岡県三池郡高田町の浄土真宗本願寺派光徳寺住職)が導師を務めて滞りなく執り行うことができまして、寿生は「無量院釈寿生」という法名の仏様となりました。 通夜および告別式には寿生が親しく交流していた中学および高校の同級生が全国から駆け付け、 大勢の山小屋の仲間(叔父久我耕一が大勢の仲間と手作りした八ヶ岳・甲斐駒ケ岳が見える山梨県 白州町の山小屋.寿生は米国より帰国後兄光生と春・夏・冬休みをいつもここで過ごしました.)、 ヨットの仲間、および勤め先の知的障害者介護サービスNPOの上司・同僚の方々、更には寿生がお世話をしていた30人以上もの知的障害者の方々も不自由な身体を押して参列戴き、親戚を除く参列者の数は250人以上にも及びました.下名の会社関係者・友人・知人には一切本件を知らせませんでしたので従って下名関係の参列者はゼロであり、親戚を除いて寿生が直接交流していた方々だけで250人以上もの参列を得たことは寿生がいかに人に好かれ、愛されていたかを示しているものと思います. 告別式におきまして下名は「父母の見た寿生の人となり」をご参列の皆様に紹介いたしました。 告別式に参列できなかった寿生の友人・知人および九州在住の親戚等のために、告別式の翌日: (2/2) 3日に前日告別式で実際に口上したとおりの文言をできるだけ正確に思い出して再現記述して資料 にまとめました。ご参考までにこの資料を同封致しますのでご高覧戴ければ幸甚です. この同封資料内容(告別式挨拶)のベースは1月31日(月)朝の貴殿よりのご下問に対し、下名および久我耕一より具体例をあげてご説明し回答申し上げました; ・木下祐正(父)------強い寿生(何事にも怖れを知らぬ豪胆な男、どんな悪環境でも生き抜ける ゴキブリのように逞しい奴) ・久我耕一(叔父)---弱い寿生(非常に繊細で、感受性が強く、まじめで、気が弱いという 上記とは別の性格と自殺の原因・誘因・要素の推察) であります。 同日午後、西川クリニックにて死体検案書を受領し、寿生の遺体を載せた葬儀屋乗用車に同乗して 下田を出発致しましたが、寿生が最後の思い出として電車窓から食い入るように眺めたに違いない かつてヨットで航海した伊豆半島東側の海を右に眺めつつ横浜に向かう数時間のドライブの間に、 上記貴殿への回答の骨子をメモにまとめ、翌2月1日に告別式向けの口上文言に修正し、2日の 告別式にてほぼ同封資料に再現記述致しました文言で参列の皆様にお話しした次第です. さて寿生の自殺決行は下名にとりましてまさに晴天の霹靂の本当に残念無念な未練が残ることであることに加え、貴殿の暖かいご親切なお人柄に感激し、更には貴殿が熊本のご出身とお聞きして下名と同じ九州男児の心安さも手伝って、ついつい綿々と綴った駄文のお礼状を書いてしまいました. どうかご容赦の程お願い致します. 私共の感謝のささやかなしるしとして、名古屋の茶菓子を別便にて送らせて戴きましたのでご笑納 下さい. 貴殿の益々のご健勝とご活躍を祈念します. お世話を戴きました貴署関係者の方々に私共のお詫びと感謝の気持ちをお伝え戴ければ幸甚に存じます. |